Deep in my heart side:M
「―――」
賢木が何か言っている。
それ程離れているわけでも無いのに、吹き荒ぶ風の音で声が聞き取れない。彼の癖のある黒髪を弄ぶ風は地面の砂をも宙へと舞い上げて、彼との間に砂嵐を巻き起こす。それに視界が隔てられる寸前、一瞬だけはっきりと見えた口元が不意に笑みを象り、読み取れた言葉に目を見開いた。
『元気でな。サヨナラ』
意味がわからない。さよならってどういう意味だ…?何故、僕の傍から去って行くんだ…!?
どうして、と言おうとした咽喉は物が詰まったように声を発さず、焦りでますます混乱する。無意識に伸ばした手が彼を求めて彷徨う。気付いた賢木がふと儚げな笑みを浮かべ、僕の手を取ると顔を寄せて来た。
遠慮がちに、そっと合わせられる唇。穏やかな触れ合い。けれど、唐突にこれが最初で最後だと悟った僕は、瞠目したまま、指先すら動かすことが出来なかった。
「じゃあな」
呆然として動けずにいる僕に構わず、賢木はいつもの調子で笑って背を向ける。ひらりと振られる掌が、これが彼の姿を目にする最後であると予感させた。
待て…、行くな……行くな、賢木…っ!!
何故、全てを諦めた顔で微笑うんだ。どうして、そんなに悲しい笑顔を残して離れて行こうとするんだ。触れた身体は冷えていた。苦渋の色を浮かべ、君が諦めなければいけなかったものとは、一体何だ…?
遠ざかる背中を引き止めたいのに、喉が引き攣れて声が出ない。掠れた息だけが乾いた音となって吐き出され、唇を震わせる。彼を捕まえたいのに、先程彼に掴まれた手は固まったように微動だにしなかった。まるで言うことを聞いてくれない自身の身体。次第に彼の後ろ姿が砂塵に消えて行く。こめかみの辺りがじんと痺れ、焦燥感に胸が騒いだ。
頼む、行かないでくれ!さかき……賢木……!!
「賢木…っ」
自分の声にハッと目を開ける。
目の前には、天井へ向けて伸ばされた自分の右腕。宙を掻いて、パタリとシーツの上に落ちる。
息が苦しい。ぜぇぜぇと咽喉を喘がせながら周りを見渡した先に時計の文字盤が目に入り、規則正しく進む数字があれは夢だったのだと知らせた。安堵の息を吐く。けれど、未だ落ち着かない心臓に心はざわめいたままだった。
嫌な汗が額から噴き出して肌を伝い落ちる。僕は眉を顰めると、緩慢に袖口で額を拭った。
翌日。昼休みに診察室を訪れた僕を、賢木は笑顔で迎えてくれた。普段と何ら変わらない穏やかな表情。それが不意に、夢の中で見た彼のそれと重なって、僕は堪らず、机の上のカルテを整理しようと背中を向けた彼を抱き締めた。
「何?どうした?」
突然背後から抱き締められた賢木が、首だけ回して不思議そうに問う。それにゆるりと頭を振って、僕は彼の肩口に顔を埋めた。
「……おまえは、ずっとここにいるよな…?」
何があっても、ずっと僕の傍にいてくれるよな――?
はあ? と、きょとんとした声が返る。いきなり抱き締めた上、何の脈略も無いことを言う僕に意味がわからないと言いたげだ。
俄かに腕に力が籠もる。どこにも行かないように、自分の傍に縫い付けておきたくて、賢木を腕の中に閉じ込める。すると、押し付けていた肩が微かに振動して、賢木が小さく笑ったのがわかった。子どもをあやす仕草で軽く僕の腕を叩く。
「当たり前だろ?」
揺るぎない口調を耳にし、俯けていた顔を上げる。途端、ずっと僕を見つめていた賢木の柔らかな眼差しと出会った。何を今更…と言って笑う彼に、不覚にも目頭が熱くなる。今、自分はしっかりと彼を掴んでいる。
夢のようなことにはさせない。勝手に離れて行くなんて許さない。それも、自分の手の届かない場所へ一人で行くなど絶対に。ちゃんと手を握ってないと、糸の切れた風船のように、ふらりとどこかへ飛んで行ってしまいそうで。
どこへだって、君と一緒に行くから。ダメだと言われても、無理矢理にでもついて行くから。けれど、もしそれが到底叶わぬことだとしたならば、そのときは、いっそ僕の手で君を――…。
賢木を抱いている自分の腕をチラリと見遣る。
執着は、時として狂気へと成り代わる。この身を激しく燃やし尽くさんとするそれは、果たして愛情と呼べるのだろうか――。
僕は自分の中の仄暗い感情に目を伏せ、腕に閉じ込めた体温に頬を擦り寄せた。温かくて心地よい温もりにそっと息を吐く。
どうか、この存在がこれから先も変わらず傍にありますように。
一度手に入れたものを、そう易々と手離せるわけが無い。絶対に失いたくないものがここにあるから。
だから、ずっと一緒にいよう、賢木。僕の傍らでいつでも明るく笑う君と共に生きて行きたいと願う。
ふっと吐息が賢木の首筋を掠める。擽ったそうに肩を竦めながら楽しげに微笑む賢木を見つめ、僕は薄っすらと唇に笑みを浮かべた。
END
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