寒い夜には




 北風が頬を刺すように冷たい。
 吹きすさぶ寒風に家路を急ぐ歩調が自然と速くなる。早足から次第に駆け足へ。息を吐く度に白い蒸気が目の前を掠める。
 不意にザァっと一陣の風が吹き抜け、コートの前を握る彼に容赦無く襲い掛かった。
「うぅっ、寒ぅ…っ!!何で東京はこないに寒いねん!?早よ帰らな、風邪引いてまうわ…」
 首に巻いたマフラーを引き上げて口元まで覆う。体を縮込ませるように前屈みになりながら、 平次は片手に持ったスーパーの袋を持ち直すと一層歩を進める足を速めた。
 今日みたいな日は、あいつと一緒に暖かな家の中で温かい鍋でも囲みたい。
 そう思って、大学からの帰り道に立ち寄ったスーパーで食材を吟味して。 ちゃっかり晩酌用の酒も購入した。
 しかし、満悦だったのも束の間、店を出た途端に晒された頬を刺す風に、 再びこの寒空の下帰らなければならない現実を思い出し、些か気持ちがヘコんでしまった。 おまけに、もうすっかり日が落ちてしまっていて、それもテンション低下に拍車を掛けた。
 暖かな店内にホッとして、ついつい調子に乗って買いすぎてしまった己が恨めしくなる。気持ちが萎えた瞬間、ただでさえ重い買い物袋がズシンッと更に1sくらい重くなったような気がした。
 そんな思いを抱えながら、いつの間にか全速力で走り出していた平次は住宅街を走り抜ける。見慣れた角を曲がり、見えて来た洋館に思わず笑みが零れた。
「たっだいま〜!あ〜、寒かったぁ〜〜〜…」
 ドンッと玄関に買い物袋を置き、フゥ〜…っと一息つく。
 そうして、真っ暗な室内を見回して小首を傾げた。
「工藤?おらんのか?」
 本日、新一は講義が無かったはずで、出不精な彼は事件でも起こらない限り、 自ら進んで出掛けて行くとは考えられない。待ち望んでいた新刊の発売日ならば兎も角、こんな寒い日は尚更だ。
 取り敢えず、ダイニングテーブルに買い物を置いて踵を返す。
 新一のことだから、どうせまた時間の経過も忘れ、明かりも点けずに読書に没頭しているのかと 思ったのだが。
「工藤?」
 呼び掛けながら覗いたリビングにも、書斎にも、彼の部屋にも探している姿は見えなくて。
 平次は新一の部屋の電気を消すと、首を傾げながら階段を下りた。
「警部はんにでも呼び出されたんやろか…。ほんなら、風呂の支度して…飯の準備して迎えたろか」
 本当はあまりにも体が冷えすぎていて一刻も早く温まりたかったが、肌を突き刺す風に晒されながら 凍えて帰って来る彼のことを考えると、まずは温かな夕飯と共に迎えてやりたいと思った。
 けれど、そこまで考えて、平次ははたと思い当たって微笑んだ。
「何や、そんなんしたら新婚みたいやな〜。飯にするか?それとも風呂?それとも、俺??な〜んてな〜」
「その前に家に入らせろ」
「…!?」
 突如、背後から聞こえて来た声に平次は声も無く飛び上がりそうになって。恐る恐る振り返った。
 そこには、不機嫌そうな新一の姿。ロングコートに身を包んだ彼の白い肌はいつにも増して青白く、 何とも血色の悪い顔をしている。
「な、何や、工藤…帰って来てたんか。おかえり。吃驚したわ」
「玄関先で何やってんだ?おまえ」
 驚いてドキドキと脈打つ心臓を押さえながらぎこちなく笑う平次に、新一は冷たく言い放つと 靴を脱ぎ、コートのままリビングの扉を開けた。
「工藤、事件やったん?寒い中、お疲れさんやったな〜…。けど、丁度講義無くて良かったな」
「…………」
 返事も返さず、暖房のスイッチを入れる。
 平次は新一のいつに無く機嫌の悪い様子に少々逡巡した後、口を開いた。
「…なぁ、事件現場で何かあったんか?」
「…………」
 尋ねても相変わらず何も言わず、車のキーをテーブルに無造作に投げるとドカッとソファに体を投げ出す。
 いつもなら隣に座るのだが、こうも不機嫌さを露にした新一の傍に寄るのは若干躊躇われて、 平次は向かいのソファに腰を下ろした。それを見た新一の柳眉が僅かに顰められる。
「なぁって。めっちゃ機嫌悪いやん。何かあったんやったら話してみ?」
「ドア閉めろ。寒い」
「え?…あ、あぁ……すまん」
 唐突に指摘されて、そう言えば開けっ放しだったと立ち上がって扉を閉めに行く。廊下からの冷たい空気が遮断され、 徐々に暖房から流れる暖かな空気が部屋中に広がっていく。
 そして再び元の場所に座った平次に、新一は苛立しげに眉間を寄せた。
「ほんで、さっきの話やけど、愚痴やったらなんぼでも……」
「おまえさー!」
 尚も言い募ろうとしたところを大声で遮られ、驚いた平次は瞳を丸くして新一を見た。視線を向けた先で、 新一は鋭い瞳で平次を見ていた。
(え……あれ?もしかして、俺に何か怒っとる…?)
 しかし、心当たりが見つからない。
 今日は朝から自分は講義に出ていたわけで、顔を合わせるのは朝食のとき以来だ。朝食のときだって、 この間の事件の話なんかしたりして新一の機嫌は良かったはずで。
 なのに、何が彼の機嫌を損ねたのか思い当たらない。
 平次が天井を見上げて今日一日の行動を思い起こしていると、地を這うような低い呟きが耳を打った。
「…おまえ、大学の後、どこ行ってたんだよ?」
「へ?」
 再度新一に視線を戻すと、彼は唇を真一文字に引き結んでキッと平次を睨みつけていた。
「どこって……スーパー寄ってたけど?」
「スーパー?」
 訝しげに繰り返された言葉に頷き、キッチンから買い物してきた袋を持って来る。
「今日、めっちゃ寒いやろ?せやから鍋でもしようか思って、材料買うて来たんや」
「…………」
 ガサッと音を立てる袋を見せるように、肘を曲げて少し持ち上げる。
 平次と食材が入ったままの買い物袋を暫く交互に見比べていた新一は、やがて何とも言えない奇妙な顔をした。 ばつが悪そうに瞳を逸らす彼に、平次は床に袋を置くと顔を覗き込んだ。
「どないしてん?もしかしておまえ、大学まで行ったんか?」
「……っ」
 ギクリと小さく肩を震わせてあからさまに動揺する。落ち着き無く瞳を彷徨わせ始めた新一を、 平次は不思議そうに見ると体を戻した。
「なんぞ大学に用でもあったんか?……あっ!あれやろ。また教授に呼び出されたんやろ?あのオッサン、 自分が教授やからって学生んこと助手みたいに扱き使いよるからなぁ…」
 ふと脳裏に浮かんだ人物に新一の用事とやらを思いついて、得意げに人差し指を立てて言い。最後には 呆れたように腕を組んで溜め息混じりに言い放った平次に、新一は疲れたように溜め息を吐いた。
「………。ハァ……」
「?どないした?」
「あー、もう。いいよ、それで」
 額に手を当てて吐き捨てる。投げやりな態度に、平次は自分の推理が間違っていたのかと 彼の隣に座って顔を近づけた。
「それでええって、違うんかいな?」
「だから、もういいって」
「もうええって何が………な…っ!?」
 食い下がろうと新一の服に手を伸ばした平次は、あまりの冷たさに手を止めた。確認するように 彼の手にも触る。まるで死人のような冷たさだ。車で移動していたにしては冷え過ぎている。
「何や、自分!めっちゃ冷とうなってるやんか!!すぐに風呂用意するよって、早よ温まってき!!」
 新一の耳元で大声を上げて立ち上がり、彼の腕を引っ張って立ち上がらせようとする平次に新一は瞳を眇め。 掴まれていた腕を乱暴に振り払った。
「大丈夫だから放っとけ」
「なっ…」
 そっぽを向いて無愛想に呟かれた台詞に、流石の平次もカチンと来る。
「何やねん、その言い草!!折角人が心配して言うてんのに!!」
「だから、大丈夫だって言ってんだろ!?」
「どこが大丈夫やねん!?こない冷え切っとって」
「〜〜〜…あのなぁ!!誰のためにこんなんなったと……っ!!」
 言いかけて、ハッとしたように口を噤む。ムッとした表情はそのままに、新一はソファに座り直すと 決まり悪そうに頭を掻いた。
「誰のためって………え…?」
 脳裏を一瞬掠めた考えに動きを止め、平次が驚いたように瞳を見開く。その顔に全て察せられたことを見取って、新一は 眉間に皺を刻んだまま僅かに頬を色づかせた。
「もしかして、おまえが大学行ったんは……俺のため…??」
 窺うような声音。
 呆然と新一を見下ろす平次を一瞥した新一は、おもむろに瞳を閉じると躊躇いがちにゆるりと首肯した。
「……ま、な…」
「なんで…」
 今までにも新一が休みで平次は講義があるという日はあったが(その逆も然り)、一方をわざわざ 迎えに行くことは無かった。夏に大雨が降ったときでさえ、平次は大学の近くのコンビニでビニール傘を 購入し、自力で帰って来たのだ。その日も新一は休みだったのだが、書斎に篭っていて平次が帰って来るまで 出て来なかった。
 それなのに、どうして?
 新一は床を俯いて膝の上で組んだ指を手持ち無沙汰に絡めている。何かを言い躊躇うかのような仕草に平次が答えを促す。
「なぁ。何で今日、わざわざ迎えに来てくれたん?」
 心底不思議そうな平次に新一は微かに顔を顰めて平次を見上げ。また視線を床に落とすと、 観念したように小さく息を吐いた。
「おまえと同じようなもんだ…」
「ん?」
 小首を傾げる平次を仰ぐ。
「今日、すっげぇ寒いだろ。だから…こんな寒い中帰って来るおまえが可哀相だと思って、さ…」
「そんで、わざわざ大学まで来てくれたんか?」
 吃驚して瞳を瞬く平次から新一は気まずげに視線を逸らす。ぼんやりと見つめ返した先に 仄かに赤い頬を発見して、自然と平次の顔に笑みが広がっていった。まるで蕾から花が開くような鮮やかな 笑顔に、横目で窺い見ていた新一が瞠目する。
 新一が自分のことを心配してくれたことがとても嬉しかった。湧き出る泉のように、彼の溢れる想いを 改めて実感し、それは平次の心に浸透して潤わせるようだ。と同時に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
 何とも幸せな気分で、平次は新一の身体を両腕で包み込んだ。
「おおきに、工藤。ほんなら、行き違うてしもたんやな」
「まさか、スーパーで買い物してるなんて思わなかったから、ちょっと探した…」
「ほな、電話してくれたら良かったのに」
「もうとっくに授業終わってんのにどこにもいねぇから、もしかして誰かとどっか行ったんじゃねぇかとか 思ってさ…。もしそうだったら邪魔になるだろうし、それに……」
 迎えに来たなんて、何だか決まり悪くて言えねぇよ…と、彼らしくない小さな呟きを耳にして、 平次は尚一層笑みを深めた。
「アホ。おまえからの電話が邪魔なんて思うわけないやろ。それに、こない寒い中誰かと遊びに行くより、 暖かい家ん中でおまえとぬくぬくしてる方が全然ええに決まってるやんか」
 言いながら身体を摺り寄せ、抱き締める腕に力を込める。
 平次の匂いと温もりを間近で感じて、新一は安堵したように漸く表情を緩めると、温かな体温を抱き締め返した。
「ホンマ、こない冷とうなって…ごめんな」
「でも、おまえが温めてくれるんだろ?」
「え」
 僅かに身体を離した隙間からいつもの不適な笑みが見えて、ドキッと平次の心臓が高鳴る。 鼻先がくっ付きそうな距離で新一が笑いながら瞳を細める。
「さっき、玄関で言ってたよな?『飯にするか?それとも風呂?それとも、俺??』ってさ」
 俺、おまえが良いな〜などと言いながら、味見とばかりにチュッと軽くキスされて平次の心臓が益々暴れ出す。平次は喉を鳴らして唾液を 嚥下すると、了承するかのように新一の手を取った。コクンと頷く。
「ええよ。おまえんこと温められるんは俺だけやしな」
 一度ぎゅっと握り締め、その手を自らの唇に引き寄せた。新一の長くて綺麗な指を一本ずつ口腔内に 招き入れ、丹念に舌を這わせて温める。新一の膝の上に腰を下ろしながら指を舐める 平次の艶かしい姿に、新一が満足そうに微笑った。


 お互いの体温を分け合って、高め合って。十分に温まったら、今度は温かい鍋でも囲もうか。
 君と一緒なら、凍えるような寒い日も悪くはない。



END (2007.12.9up)





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