鏡の中の迷宮   初出同人誌2004.8.14  2005.9.25 (再録本に収録)






 その鏡を見つけたのは、本当に偶然だった。




「工藤〜。この本、どこに〜…って、ここにもおらんのか」
 俺は書斎の扉を開けたまま、手に持ったハードカバーの分厚い本を眺めて溜め息を吐いた。この本は、数時間前に工藤が俺のために持って来てくれたものだった。書斎でも見かけたことの無かったその本を読み終え、この家の主に仕舞う場所を尋ねようと思って先程からだだっ広い家の中を歩き回っているが、どこにも姿が見当たらない。工藤の部屋、リビング、キッチン、庭から書斎に至るまで、彼がいそうな場所はもう虱潰しに捜索していた。
 今来た廊下を振り返る。
 書斎は家の奥まったところにあり、そこからは長い廊下が続いている。廊下の両側に部屋があるため窓は無く、保管している本が痛むとの理由で書斎自体にも一切窓は無い。少し先にある吹き抜けの玄関ホールに射す日差しが、現在の大凡の時間を教えてくれていた。
 本を読み始めた頃は眩しかった日差しも今では和らいで、薄らと玄関ホールをオレンジ色に染めていた。
「ここに置いといたらわかるやんな…?」
 俺はもう何度目になるかわからない溜め息を吐き、仕方無く書斎の奥に設置されている机に本を置こうとした。
 そのときだった。
 吹き抜けの天井まで伸びる本棚に掛けられた梯子の上。一箇所だけ微かに四角く線で区切られているように見えて、俺は瞳を眇めた。丁度、人が一人抜けられるくらいの大きさだ。あの向こうは屋根裏だろうか?移動可能な梯子が丁度その真下にあるということは、誰かがあそこに入った可能性が高い。その誰かとは、この家にはただ一人しかいなかった。
「全く…かくれんぼやないんやでぇ…」
 そんなことを零しながらも、好奇心でワクワクしてくる。探検をしたがる子どものように逸る気持ちを抑えられなかった俺は、本を机に置き、梯子を両手で掴むと天井を見上げた。ゆっくりと上って行く。天井に手を掛けるとそこは難なく外れ、薄暗い空間が目に飛び込んできた。顔を少し覗かして、中の様子を窺う。
「工藤…?おるんか?」
 徐々に慣れてきた目が、暗闇だった部屋の中をぼんやりと浮かび上がらせる。呼びかけに何の反応も無いことを見て取ると、俺は慎重に体全部を入り込ませた。屋根裏と言っても、大人一人が立って余る程の高さがあった。目当ての人を探してぐるりと辺りを見渡す。そこには、ファンレターが収められたダンボールが山積みにされてあったり、自分も幼い頃に遊んでいた懐かしい玩具やら、色々なものが置いてあった。
 その中で一つ、俺の興味を惹いたものがあった。それは俺の身長程の大きさで、ベールのように一面布で覆われていた。
「何や、これ…」
 隠しているわけではないのかもしれないが、このように仕舞われていると、そのベールを剥いでみたくて堪らなくなる。探偵の性か、それとも人間の本能か。
 兎に角、俺は堪えきれぬ好奇心に負けて、そのベールを剥いでしまったのだった。
「…何や。ただの鏡やないか」
 現れたのは楕円形の鏡だった。縁に見事な彫刻が施され、思わず触れずにはいられなくなってしまう程に美しい。
「綺麗やなぁ…。しっかし、えらい高そうな鏡や…」
 俺はその神秘的な繊細さについ見惚れ、縁を彩る彫刻を指でなぞりながら現実的なことを呟いてしまったことに苦笑した。
(ま、あいつのあの若くて別嬪なオカン辺りが買うたんやろうな)
 けど、こんなところに仕舞われているのは勿体無いなぁ…と思って、目の前の鏡に視線を戻した。途端に感じた僅かな違和感。
「?」
 鏡に映っているのは確かに俺の筈なのに、どこか違和感がある。首を傾げると同じように首を傾げるし、何がどうおかしいというのはわからないのだが…。
 不可思議な感覚を覚え、俺は鏡に映る自分に触れようとして縁から鏡面に指を滑らせた。映っている俺の手と鏡を挟んで重なる。その瞬間。
「!?」
 忽ち金色に輝く閃光が鏡から飛び出し、俺はあまりの眩しさに顔を背けてぎゅっと瞳を閉じた。
「……?」
 暫くして光が弱まったことを瞼の裏で感じ取り、恐る恐る目を開けてみた。周りを見渡す。そこは変わりなく工藤の家の屋根裏部屋で、目の前には大きな鏡が先程の余韻も感じさせぬ静けさで存在していた。
 今さっき起こったことは夢だったのだろうか。確かに、鏡からいきなり光が飛び出すだなんて現実に有り得ない。しかし、鏡に映る俺の違和感は未だ拭いきれていなかった。
「けったいなこともあるもんやなぁ…」
 俺は腑に落ちない蟠りに首を傾げ、取り敢えずその場を後にすることにした。





「おーい、服部ぃ」
 俺が梯子を下りていると、どこか間延びしたような工藤の声が聞こえて来た。その声はやがて近づいてきて、開けっ放しだった扉から顔を覗かす。
「何だ、こんなところにいたのか。もうすぐ夕飯だけど、どうする?」
 俺を見つけて顔を綻ばせた工藤にまた違和感。工藤が笑いかけてくれるのは嬉しいけれど、何か違うような気がする…。
「服部?」
 俺が自分の世界に入り込んでいると、工藤が怪訝そうに覗き込んできた。
「ぅわっ!何やねん!?」
「いや、だから、夕飯どうするか?って聞いてんだよ」
 突然アップになった工藤に驚いて俺が頬を染めて一歩退くと、工藤は何故か拗ねたような表情で口を尖らす。そんな彼を見たことが無かった俺の心臓は、俄かに早鐘を打ち始める。
 けれど。
 やっぱり、いつもの工藤とはどこか違う気がする。
 再び思考の渦に巻かれて俯いた俺に工藤は静かに近づくと、不意に俺の顎を持ち上げた。
「?」
 何事かと思って目前の彼に視線を戻した俺は、次の瞬間、信じられない感触を唇に感じた。
「…っぅ」
 工藤の顔がぼやけている。小さな音を立てて離れた唇。
「夕飯、適当で良いな?後で文句言うなよ」
 何が起こったのか理解出来ずに呆然とする俺に構わず、工藤は何事も無かったかのような表情でそれだけ言うと、さっさと書斎から出て行ってしまった。足音が遠のいて行く。
 残された俺は、唇に残っている感触に無意識に指を這わせてからハッとして、今更ながら赤面した。





 これは、俺の願望を映した夢なのではないか、と思った。
 だって、工藤が俺にあんなことをする筈が無いし、今までだって勿論されたことも無かった。それに、いつもは俺に作れと言うのに、キッチンに移動した俺の前に現れた食事は全て工藤が用意してくれたものだ。以前、俺が何かのときに何気無く好きだと言った料理も並んでいる。
 俺は、不思議なものを見るような気持ちで席に着くと、「いただきます」と手を合わせて、それらに箸をつけた。
「……ごっつ、美味い…」
 箸を口に入れたまま感慨深げに小さく呟いた俺に、工藤は目を細めた。思いがけず優しい表情に、俺の心臓が大きく跳ねる。紅潮してきた頬を見られるのが嫌で、俺は急いで山盛りになったご飯茶碗を掴むと、口一杯にかき込んだ。
「おまえ、そんなに詰め込むと咽るぞ」
 視界の端に工藤の呆れた顔が映る。頬はまだ熱かったが流石にこれ以上は入りそうも無く、俺は仕方無く茶碗を置いた。
 そして、ふと思い出して工藤を見る。
「あ、なぁ。そう言えば、書斎に屋根裏があったんやな。俺、今日初めて知ったで」
 いつもあそこで本読んどるのになぁ〜と笑うと、工藤は食事を口に運びながら。
「あぁ、俺も。この間まで知らなかった」
「へ?」
 予想外の返事に、俺は箸を止めて思わず間抜けな声を出してしまった。
「え…せやって、ここ、おまえん家やろ?」
「当たり前だろ」
 何を言ってるんだ。とでも言いた気に、工藤が冷めた視線を向けてくる。
「せやったら、何で知らんの?」
 生まれてから十七年間、ずっとこの家に住んでいる筈の彼が知らなかったということに、疑問を持つなと言う方が無理だろう。
 じっと見つめられることに居心地の悪さを感じたのか、工藤は少し身動ぎすると箸を止め、溜め息を吐きながら頭を掻いた。
「屋根裏があるってのは知ってたんだけどさ、どこにあるのかは知らなかったんだよ。この家には、父さんが遊び半分で色んなものを作ってんだよ。曲がりなりにも世界屈指の小説家、とか言われてるからな。きっと、まだ俺の知らない隠し部屋とかあるだろうぜ」
 そう言いながら味噌汁を啜る。俺は妙に納得してしまって、止めていた箸を再び動かした。
「はぁ〜、なるほどなぁ…。ほんで、工藤は上ってみたん?屋根裏に」
「あぁ。でも、大したものは無かったな」
「実は、俺も上らしてもろたんや。あ、いや…人ん家の屋根裏に勝手に入るんは悪いかなぁ、とは思たんやけど…」
 工藤がチラリとこちらに視線を寄越すものだから、そのときは然程思いもしなかったことを急いで付け加えた。今になって思えば図々しかったかもしれない。俺は、工藤が怒っているかと、俯いてそっと様子を窺った。
 しかし、彼は別段怒った様子も見せず。
「別に良いぜ。今更おまえに見られて困るようなものはねぇし、それに、好奇心が湧くってのもわかるしな。まぁ、その好奇心とやらのお陰で俺はひでぇ目に遭ったけど」
 工藤は苦笑しながらも、
「コナンだったときも、そういや随分と色んなところに首を突っ込んだよなぁ…」
と、どこか懐かしむような瞳で呟く。
「ん…せやな。二人で色んな事件に首突っ込んだりしたな」
 遠くを見つめる工藤に、俺は嘗ての小学生だった彼を重ね合わせた。
 初めて新聞で工藤の名前を見たときの嫉妬と焦燥感。堪らずに東京まで押しかけて行って出会った小学生。それが事件に巻き込まれた彼だと知ったときに感じたのは、同情と奇妙な親近感だった。メディアでは「完璧」と言われ、「日本警察の救世主」とまで謳われていた彼の失態に、彼には悪いが、こいつも自分と同じ人間で同じ高校生なのだと変に安心してしまったのだ。それまで彼に抱いていたイメージが180度変わったような気がした。
 その後、偶然事件現場で顔を合わせたりしている内に、彼に対しての興味がどんどん湧いてきて、彼をもっと知りたいと思うようになった。彼を大阪に招いたり、わざわざ東京に出向いたりする程に。
 彼と秘密を共有している事実が嬉しかった。
 俺と工藤の間に、友情と言える感情が芽生えたのはいつだったか。そして、俺の中のそれが恋心に変わったのは、いつだったのか。
 クールだと言われていた彼が内に秘めている感情の激しさを知ったときだろうか。
 思いがけず、抜けているところがあることに気づいたときだろうか。
 誰よりも仲間思いで、大切な人を命を懸けて守り抜く姿を見たときだろうか。
 いずれにしても、いつの間にか自分の中で彼はとても大きな存在になっていて、無くてなならない掛け替えの無い人間になっていた。
 幼馴染みの彼女よりも彼を優先したい。何に変えても彼と共にありたいと思ったとき、友情を越えた感情に気がついた。
 正面で食事を進める工藤を盗み見て、俺は小さく吐息を零した。数時間前に触れた唇に自然と目が行き、熱くなる身体に慌てて目を逸らした。
 ずっと、これから先も片思いで終わるのであろうと思っていたのに、一体どうしたというのだろう。
 彼には前々から待たせていた幼馴染みがいた。二人の絆の深さを彼がコナンだった頃から目の当たりにしてきた俺は、この想いを一生告げないでおこうと決めていた。
 彼を困らせたくはなかった。それに、わかりきっている答えを彼の口から聞いて、傷つきたくもなかった。何よりも、告げたことで彼が自分から離れて行くことが怖かったのだ。
 それなのに。
 報われる筈の無い想いだったのに。
 工藤は事も無げに俺に触れて、今も俺の傍にいる。一度もその話題に触れもしない。もしかすると、あの行為は彼にとっては何でもないことなのかもしれない。特に意味の無かった彼の行動を俺だけが意識しているのか。俺だけが工藤に振り回されている。
―――工藤にとって俺は何なんやろう…?
「…どうした?俺の顔に何か付いてるのか?それとも、飯、不味いか?」
 怪訝そうな工藤の声に、俺はハッと我れに返った。自分の世界に浸っていた俺は、知らず工藤の顔を凝視していたらしい。俺は慌てて首と両手を振ると、「何でも無い」と苦笑した。
「飯も美味いし、工藤も男前やで」
「……言ってろ」
 本音を冗談というオブラートで包み込むと、工藤は眉を顰めて溜め息を吐いた。俺は小さく笑って、喉元まで出かけた本音を飲み込むようにご飯を頬張った。
「………。……あのさ、服部……」
「…ん?」
 二人して暫く黙々と食べていたが、不意にどこと無く歯切れの悪い声に顔を向けると、工藤がいつになく真面目な顔で俺を見ていた。ドキンと脈打つ鼓動。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
「何や?」
 頬張っていたものを嚥下して、向かいに座る彼に向き直る。麦茶に口をつけると、工藤はどこか思い詰めたような表情で目を逸らした。
「おまえ…さ、その……好きな奴とかいる?」
「ぶほっっっ!!」
「お、おい、大丈夫か!?」
 突然な科白に、俺は口に含んでいた麦茶を噴出しそうになった。盛大に咳き込む俺に、工藤が慌てて立ち上がり、背中を擦ってくれる。心配そうに顔を覗きこむ。
(そんなん、俺の目の前におるがなッ!!)
 心の中で叫ぶ俺は至近距離にある工藤の顔を認めて、一気に頬が上気していくのを感じた。
「……な。いるのか?」
 尚も食い下がる工藤に、俺は戸惑いながらその胸を押し遣ると視線を逸らした。
「な…何やねん、いきなり……」
「良いじゃねぇか。いるのかどうか教えてくれてもよ」
 こんなときでも王様俺様工藤様な態度に、俺は暫く考え込むようにして押し黙った。背中を擦ってくれていた手が肩を掴んでいる。彼が触れている箇所が熱を持ったように熱かった。
「…………。……おるで」
 長い沈黙の後、瞳を伏せて一言そう呟いた俺に、工藤は酷く寂びそうな瞳をした…ように見えたのは気のせいだろうか?
「そ…っか…」
「何や…一体どないしたんや?工藤…」
 意気消沈したかのように肩を落として息を吐いた工藤に、俺は困惑しながら声を掛ける。俺の問い掛けには答えずに、彼は儚げな笑みを浮かべた。
「そいつと付き合ってんの?」
 小さな問い掛け。俺は首を横に振りながらも、瞳だけは工藤から逸らすことが出来なかった。
 何故、彼はこんなことを聞くのだろうか?
 疑問符が俺の中を占めていく。
 そんな態度を取られると、俺は浅ましくも期待してしまうではないか。
「え?いや…付き合うてへんけど……」
「じゃあ、さっさと告白して幸せになれよ。きっとおまえなら上手くいくさ」
 瞳を伏せて、それでも明るい口調でそんなことを言う。肩をポンポンと叩きながら離れて行こうとする彼に俺は無性に切なくなって、今度は緩く首を振った。もうこれ以上、俺の心を掻き乱さないで欲しかった。
「……上手くなんぞいかへんわ」
「え?」
 俺にしてはネガティブな発言だったからか、驚いたように工藤が顔を上げる。まじまじと見つめてくる工藤の視線に居た堪れなくなって、避けるように横を向いた。
「せやって、そいつ…好きな人がいてんねん。俺なんか入り込む隙間もあらへんわ…」
「そうなのか…」
 工藤はそう呟くと、何事か思案するように黙り込んだ。顎に手を当てるのは考え込むときの癖。俺が言っているのはおまえのことなのに、彼は何を考え込んでいるのだろう。こんなにも近くにいて、色々な彼の仕草も知っているのに、気持ちだけが伝わらない苦しさに胸が張り裂けそうだ。もし、本当に俺の幸せを願ってくれるのなら、ここで告白するから応えて欲しいと身勝手にも願ってしまう自分自身に嫌気が差した。
 そんな同情染みた感情ならば欲しくないのだから。贅沢だと言われても仕方が無いけれど、やっぱり自分が求めているのは彼の本心なのだから。それを手に入れるのは、天変地異でも起きぬ限りきっと無理だと思うけれど…。
 俺はフルフルとかぶりを振った。
 こんな風に、ごちゃごちゃ考えるのは俺の性に合わない。
 俺が考えることを放棄したら、工藤も自分の世界から戻ってきたらしい。先程までとは打って変わって、見慣れた不適な笑みを浮かべる。
「そっか…。そしたら、俺にもチャンスはあるわけだな」
「え…?」
 何のことだか理解出来ない俺は、惚けたように彼の顔を見返す。工藤は口元に浮かべていた笑みを消すと、真剣な瞳で真っ直ぐに見つめてきた。鋭い視線に貫かれて身動きが取れなくなる。まるで、見えない呪縛に囚われたようだ。
「……俺…」
 工藤は一度言葉を切ると、意を決するように息を飲み込んだ。そして、殊のほか穏やかな瞳を向けて。
「……俺、おまえのことが好きだ。その気持ちだけ、知ってて欲しいって思う…」
 真っ直ぐ、面と向かって言われた言葉の意味を理解するのに時間がかかった。自分の耳を疑う。驚いて目を何度も瞬いた。信じられない気持ちに、息が喉の奥に引っ掛かって上手く声が出てくれない。何度も唾を嚥下して、やっと出た声は掠れていた。
「ぇ……ほ、ほんま…に?工藤……」
 工藤は特に揶揄した様子も無く、さっきと同じ表情のまま黙って頷く。俺は嬉しさで目頭に熱いものが込み上げてくるのを必死に堪えた。
「俺も。俺も、工藤のことが好きやで」
 言葉に詰まりながらも伝える。今まで、工藤との関係を維持することばかり考えていて、どうしても言えなかった言葉は意外とすんなり口をついて出た。
「え…っ、マジで!?」
 工藤が目を見開いて確認してくる。俺は、滅多に拝めない工藤のポカンとした顔を「可愛ええな…」と思いながら頷くことで肯定を示した。すると、見る見るうちに工藤は満面の笑みを浮かべると、嬉しそうに俺をぎゅっと抱き締めてきた。
「…すっげぇ嬉しい……。夢みたいだな」
「夢やないで…」
 抱き締められると心臓が高鳴る。このままでは死んでしまうのではないかと思うくらい胸を高鳴らせながら、俺は感じる体温が愛おしくて嬉しくて、存在を確かめるように工藤の背中を抱き返した。




   * * *




「……ぃ、…っとり……ぉぃ……おいっ!服部!!」
「ぅ…ん……?何や……?」
 頭上で喧しい声が聞こえて、俺は眉を顰めると瞳を押し上げた。ぼやけた視界に浮かび上がる見慣れた顔。その顔が安堵の表情を見せるや否や、俺は耳を掴まれて引き起こされた。引っ張られた耳に痛みが走る。
「痛たたたたたっ!!何すんねん!工藤っ」
 耳を掴んでいた手を振り払い、擦りながら罵声を浴びせる。涙の滲む瞳で睨みつけると、彼は呆れたように腰に片手を当てて、もう片方の指先を俺の鼻先に突きつけた。
「何すんねん、じゃねぇよ。こんなトコで寝てたら風邪引くだろうが」
「へ?」
 仁王立ちで腕組みをして見下ろす工藤を見上げ、それから周りを見渡してみる。馴染みのある風景は確かに工藤の家のリビングで、俺はソファに身体を預けていた。いつの間にやらそこで眠ってしまっていたらしい。
「???」
 先刻まで、工藤と一緒にダイニングにおった筈やけど…?と首を傾げる俺に、工藤は不審げな視線を寄越した。
「おまえ、変なモンでも食ったのか?それより、もうそろそろ夕飯の時間だから何か作ってくれよ」
「は?何言うてんねん。工藤、さっき一緒に食うたやんけ。ボケたんか?」
 工藤が珍しく作ってくれて、一緒に食べただろう?と瞳を傾げたが。
「誰がボケたんだよ!おまえこそ、夢でも見てたんじゃねぇのか?」
 …夢?
 ゾクリ…と、背中を冷たい汗が流れ落ちていくのを感じた。
 そう言えば、あんなに熱い抱擁を交わしたというのに、工藤はいつも通り憮然な態度で。
(俺……夢にものごっつぅ喜んどったんか…?めっちゃショックやんけ…っちゅーか、夢と現実の区別もつかへんようなっとることの方が問題や…っ)
 頭を抱えて赤くなったり青くなったりと一人百面相をしていると、思い出したとばかりに工藤が口を開いた。
「そういや、書斎の天井板が外れてたんだけど、もしかしておまえ、入ったか?」
「え?あ、あぁ…入ったで」
 まさか、それも夢だったのかと思ったが、そうではないらしい。俺はホッと息を吐いた。
「もしかして…あかんかったか……?」
 それでも、やっぱり他人の家の屋根裏に無断で入った負い目に、窺うように工藤を見る。その瞬間感じた既視感。
「別に良いぜ。今更おまえに見られて困るようなものはねぇし、それに、好奇心が湧くってのもわかるしな。まぁ、その好奇心とやらのお陰で俺はひでぇ目に遭ったけど」
 と、苦笑しながらそこまで言って、工藤はふと言葉を止めた。何か思い当たったらしく、顎に手を当てて瞳を少し見開く。
「…なぁ。俺、今の科白、前にも言わなかったか?」
「え?」
 びっくりして見つめ返すと彼は思い直したのか、片手を振って決まり悪そうに笑った。
「…あ、いや、気のせいだ。気にするな。それより、早く夕飯にしようぜ」
 腕を伸ばしながらキッチンへと入って行った工藤に俺は何も言えず、ただその後姿を黙って見送った。





「そうだ。おまえさっき、書斎の屋根裏に入ったって言ったよな?そこで何か見つけなかったか?」
 いつもと同じく俺が作った夕飯を二人で囲んでつつく。暫くの間無言で箸を動かしていた工藤は不意に立ち上がると、冷蔵庫から麦茶を出しながらそんなことを訊いてきた。
「あ?あぁ…鏡、見つけたで」
 グラスに麦茶を注いでいた手が止まる。
「それ、布が被せてなかったか?」
「すまん…。俺、それ剥いでしもたんや……」
「…で?その後、何かした?」
 もしかして、触ってはいけないものだったのだろうか。工藤は小さく溜め息を吐くと、再び手を動かして淡々と質問を続けた。
「え……別に何もしとらんで。綺麗な鏡やなぁ思うて触ったけど」
「触ったのか」
 ピクリと肩眉が上がる。麦茶が注がれたグラスを俺の目の前に置いた工藤は、今度は盛大な溜め息を吐いた。
「あ…あかんかったか?すまん…」
 俺は項垂れて素直に謝った。工藤は再度吐息のような溜め息を吐いて。
「あれは『泡沫の鏡』と言って、どこだかの国で大昔に作られたものを父さんが手に入れたんだ」
 工藤が席に戻った気配を感じてそっと目を上げた俺は、彼の言葉の端を復唱する。
「泡沫の鏡…?」
「そう。あの鏡に触れると、そいつが望む世界に入り込んじまうんだ。金持ちになりたいと思う奴が触れたら、一攫千金のチャンスに大儲けして富を得たりとか、全てが自分の思うが侭になるんだ。多分、鏡に何か仕込まれていて、触れたら催眠か何かにかかる仕掛けなんだと思うけど。…でも、その夢の世界に魅せられて、堕落していった者も多いそうだ。だから、あの屋根裏に封印してあるんだよ」
 夢の世界。
 そこでは甘い夢も見られる。だけど所詮は夢、現実では無い。どんなに良い夢を見ても、それが現実では無いのなら虚しいだけだ。
 俺は、さっきまでのことが全て夢であったと改めて思い知らされて、益々落ち込んでしまった。
 打ちのめされて食い気も失せた俺の耳に、工藤の呑気な声が飛び込んでくる。
「まぁ……実は俺も、興味本位で触っちまったんだけどな。ハハハ〜」
「触ったんかい!」
 頭を掻きながら笑う工藤に、落ち込んでいても、透かさず突っ込むことを忘れない。関西人の哀しい性やんな……と、しみじみ思うこともある。
 工藤はそんな俺に構いもせず、楽しそうにクスクスと笑いながら続ける。
「お陰で貴重な夢が見られたぜ。この俺が、おまえのために料理をしたりするんだよ。あれは結構美味かったな。けど、一番凄ぇのは、おまえが俺のことを好きだって言ったことかな♪…有り得ないだろ?」
 最後の科白は心なしか淋しそうな声音に聞こえた。それは、俺の思い違いかもしれないけれど、でもこの夢は、確かにさっきまで俺が見ていた「夢」と同じようで…。
「……それって、おまえが俺に、好きな奴おるか?って聞く夢か…?」
「え…」
 心底驚いたらしい工藤は、一瞬茫然として危うく箸を取り落としそうになった。何とか落ち着いて探るように見つめてくる瞳に、俺は儚い笑顔を向けた。
「それ、俺が見とった夢と多分一緒や」
 夢は、その人の願望の現われって言うやろ?
 そう続けると、工藤は大きな瞳を更に大きく見開いて瞬きを繰り返した。

「なぁ、工藤。あそこにおったおまえは、もしかして……」


 おまえが願っとる、ほんまの姿なんか…?


 それともこれは、

 未だ抜け出せずにいる、俺の願望を映した鏡の迷宮なのだろうか…




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