鏡の中の迷宮U   初出同人誌2006.5.4






 工藤とケンカをした。

 事の発端は工藤が俺に向かって言ったある一言だった。その台詞にも傷ついたが、最後に工藤が冷たく言い放った言葉は止めのように俺の胸を深く突いた。


「おまえが俺の何を知ってるって言うんだ?」


 その言葉はずっと頭の中でリフレーンしている。

(俺は…工藤の何を知っとるって……?)


 そんなことを言われるとは思ってもみなかった俺はショックのあまりそれ以上その場にいることが出来なくて、感情のままにリビングを飛び出し、広い屋敷の中を当ても無く歩いていた。
 それは確かに、初めは新聞で彼を見つけて、好奇心と対抗心から彼のことを色々調べた。その内、あれだけマスコミに露出していた彼がパタリと音沙汰無くなったのが気になって、自らどんな人物なのかと確かめに行った。実際に彼に会って、彼の背負い込んだ苦労や運命も知って、それまで知っていた「彼」というものが大衆に対してのものだと気が付いたのだ。本当の彼は、マスコミなんかで取り上げられているような、クールで知的でキザなだけでは無く、意外と情熱的な部分も持っていたし、知れば知るほど我が侭だったり俺様だったりもしたが、何よりも仲間を大切にする奴だった。
 だから俺は、どんどん彼に惹かれていったのだ。
 知らない彼の一面を発見する度に、例えようの無い歓喜が身体中に沸き起こる。
 もっと知りたくて、一緒にいたくて、俺は足繁く東京に通い詰めた。そして、ようやく俺は、彼の心の中に入れてもらえるようになったのだ。
 誰にも言えない秘密の共有。それが、俺達の仲を急速に深めていった。
 そうしたことの積み重ねで、俺は彼の全てを知ったつもりでいたのかもしれない。
 ……でも、それは大きな間違いで。
 彼の経歴などと言う、ちょっと調べれば誰にでもわかることは基より、彼の人生で最も重大な秘密などといった一部の人間しか知らないことは知っている。だが、それが全てでは無い。
 だって、ずっと前から一緒にいるような気もするが、よく考えれば、実際俺と工藤はまだそんなに長い付き合いではない。彼の幼馴染みや、子どもの頃から隣に住んでいる博士は勿論のこと、恐らく、彼の日常に接する機会が多いあの聡明な小さな彼女よりも、俺は彼のことを知らないのだと思う。
 彼のクラスメイトや友人を知らない。
 授業中はどんな風に授業を受けているのかとか、学校帰りにどこに寄り道をしているのかさえ知らない。
 いくら大阪と東京という距離感をも思わせないくらい頻繁に訪れているとは言え、日常的に彼と接していない俺が、一体彼の何を知っていると言うのだろう。
(あいつの日常すらも、俺は知らんのや…)
 はぁ…と思わず溜め息が漏れる。
 ふと、伏せていた顔を上げると、眼前には書斎に通じる扉。
 どうやら、無意識の内に工藤邸を訪ねる度に篭っている部屋へと足が自然に向いてしまったらしい。苦く笑う。
 取り敢えず、気晴らしに読書でもしようかと扉に手を掛けたところで、ハッと思い出した。
 以前、ここで思わぬものを見つけたことを。
 己の願望を映し出し、その者を夢幻の世界へと誘う鏡。まやかしの世界への誘惑。

 ―――泡沫の鏡…。

 今でもまだあるのだろうか?ここに隠された屋根裏に。
 開いた扉をそっと閉めて書架を見上げる。目を眇めて天井を見渡すと、変わらずそこにある入口。
 …ちょっとだけ、あの夢の世界に引き込まれたくなった。
 そんな風に思う自分は、一体いつからこんなに弱くなったのだろう。それとも、これが鏡の魔力なのか。兎に角、一度沸き起こった衝動はとても抑えられるものではなかった。
 俺は梯子を屋根裏の入口まで移動させると、あのときのようにゆっくりと上り始めた。
 キシキシと音を鳴らす梯子を上がり、天井に手を掛けて板を外す。覗いた屋根裏は相変わらず薄暗くて、目が慣れるまでに時間が掛かった。
 慎重に身体を乗り出し、這うようにして上がり込む。
 暫くして目が慣れてくると、俺はその鏡が以前と同じく布を被せられて鎮座しているのを見つけた。
 そろそろと近付き、少々躊躇いがちに布を取り除く。中から現れた鏡の変わらぬ美しさに、俺は思わず溜め息を漏らした。
 一つ深呼吸をして、微かに震える指で細部まで事細かく装飾の施された縁をゆっくりなぞる。そのまま指を鏡面に滑らせて、鏡の中の俺と手を合わせた。
 瞬間、鏡から発せられる目映い光。
 俺は静かに目を閉じて、泡沫の世界へと引き込まれて行くのを黙って感じていた―――。





   *  *  *





「……??ここは……」
 強い光が去ったことを瞼の裏で感じ取った俺は目を開け、目の前に広がる景色に暫し呆然と瞳を瞬かせた。
 てっきり、この間と同じく工藤の家の屋根裏にいると思ったのに…。
 そんなことを思いながら周囲に視線を巡らせる。風が街路樹を揺らし、緑の葉を靡かせて木漏れ日がキラキラと輝いている。どこまでも抜けるような蒼空。少し離れた場所を行き交う人々。広大な敷地には無数の建物が建っている。長閑な昼下がりの風景。
 俺は立ち尽くしたまま拳を握り締めた。
 ここは、前に一度だけ来たことがある場所。
 数ヶ月前、工藤と二人で来た場所だった。来春、二人でここの門を潜ろうと話した、東都大学の、敷地内…。
 今俺がいるのは、一面芝生に覆われた中庭から少し外れた植え込みの中。目と鼻の先にある中庭には何組かのグループが座り込んで談笑しているが、植え込みに囲まれたこの一角は人目につきにくく、学生達の喧騒もどこか遠くに聞こえる。
(これが…俺の願望、か……)
 苦笑いが零れる。
 では、差し詰め自分はここの学生にでもなったというところか。「彼」の日常が知りたかったから。「彼」と一緒に学生生活を過ごしたくて。
 改めて突きつけられた己の単純な思考に脱力して、ふぅ…と息を吐いて座り込む。しかし、夢だとわかっていて見る夢は、何とも奇妙な感じだ。
 と、そんなことを考えていると、すぐ近くで女の子のきゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえてきた。歓声のようないくつもの黄色い声。
 何事かと思い、そちらに目をやると。
「…工藤…?」
 数人の女の子に囲まれた工藤が、校舎からこちらに歩いて来るのが見えた。頬を薄っすらと赤らめて工藤を見つめる彼女達の中で、彼は困ったような笑顔で話をしている。その瞳が何気無くこちらを見て、偶然目が合った。途端、彼はあからさまに嬉しそうな顔をする。そんな表情などあまり見たことが無かった俺は驚いて、自分の顔がみるみる赤く染まって行くのを感じた。
 何とも気恥ずかしくて思わず視線を逸らすと、視界の端で工藤が何事かを女の子達に告げ、不満そうな彼女達にとびきりの笑顔で手を振っている。そのまま彼は彼女達を振り切るようにして走って来た。
「よう!おまえ、こんなトコにいたんだな。探したぜ」
「へ?あ、そ、そうなんや…そら、すまんかったな…。ほんで、えっと……あー…それより、ええんか?」
「何が?」
「何がって、あのコらや。何か誘われてたんとちゃうんか?」
 小首を傾げる工藤に俺は彼の背後に視線を投げる。そこでは、未だ諦めきれないらしい女の子達がこちらを見ていた。
 工藤が俺の視線の先を予測して、得心したように息を吐く。半眼で俺を見下ろす。
「あぁ…。映画に行かないかって誘われただけだけど……何だよ。俺があの子達と出掛けた方が良かったのか?」
 不機嫌そうな声色。拗ねたように唇を尖らせる工藤に心臓が大きく跳ねる。
「は…?や、ええんかって……工藤のことやんか。別に俺、関係あらへんし……」
 俺がもごもごと戸惑いながらもそう言うと、暫く工藤は俺をじっと見つめて。
 ふっと、視線を地面に落とした。
「…………。そう…か……。そうだよな…おまえは……」
 思いの外悲しげな声と意味のわからない言葉に困惑して彼を見上げるが、暗い影が落ちているため表情が読めない。
「工藤…?」
 窺うように問い掛けると、彼は弾かれたように顔を上げた。誤魔化すように微笑む。
「あ、いや、何でもねぇよ。…そう言えばおまえ、この後暇か?」
「え?あ、あぁ…」
「じゃあさ、ちょっと俺に付き合わねぇ?」
 滅多に自分から誘わない彼からのお誘いに、まるで女の子のように期待で胸がドキドキと高鳴るのを自覚する。けれども、そんなこと知られたくなくて、努めて素っ気無い態度で返す。
「まぁ、別に構わんけど…どこにや?」
「そうだなぁ…。取り敢えず、学外に出てお茶でもすっか。あ、そうだ。たまに映画でも観に行こうぜ」
「映画?」
「嫌か?」
「嫌っちゅーわけやないけど……映画でええんか?どっか行きたいトコがあったんとちゃうの?」
 工藤が映画に行きたいと言い出すだなんて珍しいこともあるものだ。それも、わざわざ俺を誘うなんて。幼馴染みの彼女とは結構頻繁に映画だのショッピングだのと出掛けているけれど、いつだって工藤は何か決まった用事があるときしか俺に声を掛けなかったから、目的の曖昧な誘いに違和感を感じた。不思議に思って首を傾げる。
 そんな俺に、工藤は困ったように微苦笑した。
「行きたいトコって言うか…俺はただ、おまえと一緒にどっか行きたいだけだよ」
「な……」
 予想外も予想外。俺にとっては想定外な答えだったそれは、途轍もない威力で俺を撃ち抜いた。
 顔が瞬時に赤くなる。もしかしたら、ボッと音を立てたかもしれない。気付いた工藤が訝しげに顔を覗き込んでくる。
「どうした?顔、赤ぇぞ?熱でもあんのか?」
(どわぁ〜〜〜ッ!!しれっとあんな台詞を吐いた後にドアップかますな…ッ!!)
「あっ、い、いや!!な、何でもあらへん…!!あんま見んといてんか!!」
「え?あ、うん……わかった」
 ぐわ〜っと捲くし立てて赤い顔を見られないように下を向くと、俺は工藤を置いてさっさと歩き始める。突然の俺の奇行に呆気に取られていた工藤も、俺が歩き出すと慌てたようについて来た。足早に歩を進める俺に追いつき、横に並んだ彼は嬉しそうにニコニコしている。
 いつになく満面の笑顔を振り撒く工藤に、俺は自分の心臓が壊れやしないかと密かに溜め息を吐いた。






 いつ免許を取ったのか、工藤は学内駐車場に向かうと停めてあった白のNSXに鍵を差し込んだ。助手席の扉を開けると、当然のように俺に乗れと促す。俺は躊躇いながらも大人しく従って乗り込んだ。工藤らしく、必要最低限の物しか置かれていない飾り気の無い車内。でも、シンプルなアクセサリーはどことなく品を感じる。
 ガチャリと運転席が開き、滑り込むように乗り込んだ工藤に目を移す。シフトチェンジをして静かに車を発進させる。どこか楽し気にステアリングを握る彼を凝視すると、視線に気付いたのか、暫く運転に集中していた工藤は、不意に居心地悪そうに僅かに身動ぎをして小さく苦笑いを零した。ちらりと横目で問い掛けてくる。
「……なに?」
「あっ、いや…何でもあらへん…。けど、工藤、いつ免許取ったんや?」
「ん?あぁ、この間だよ。今年の初めから自学通ってて、ついこの間取れたばかり」
「へぇ〜…全然知らんかったわ…。しっかし、免許取り立てでこないな車乗り回しとるんか。これやから金持ちのボンボンはなぁ〜…」
「悪かったな。おまえを驚かせてやろうと思ったんだよ。それに、これは母さんの車。どうせこっちじゃ殆ど乗らねぇんだし、置いとくだけじゃ勿体ねぇだろ?転がしてやんねぇと」
「まぁ、せやな…」
「おまえは免許取んねぇのか?」
「俺か?う〜ん…今はバイクの方がええからなぁ…」
「そっか」
 それっきり互いに口を閉じてしまい、話題が途切れる。沈黙が何となく気まずく感じて、俺は窓の外に視線を移した。後ろに流れて行く景色を窓枠に腕を突いてぼぉ〜っと眺める。
「…そういやおまえ、最近どうなんだよ?」
「へ?どうって、何がや?」
 不意打ちを喰らったように目を丸くして、反射的に勢い良く振り向いた俺に工藤が笑う。
「ほら、一人暮らしだと色々あるだろ?おまえは今まで俺ん家とかちょくちょく来てたとは言え、実際に生活すると大阪とは勝手が違うだろうから大変なんじゃねぇかなって思ってさ」
「え?あ、あぁ、うん……まぁ…ぼちぼち、やなぁ〜……ハ、ハハハ…ハハ……」
(まだ一人暮らししてへんから、イマイチようわからんけど…)
 近い将来自分を待っているであろう現実を思い、思わず遠い目をする。工藤はそれを一人暮らしの気苦労からくるものだとでも思ったのだろう。柳眉を僅かに寄せて微笑んだ後、何事かを思案するように目線を上げ。コホンと一つ咳払いをした。
「あ〜……それで、その……さ…。おまえさえ良ければ…なんだけど…さ……」
「ん?なんや?」
 彼にしては珍しく歯切れの悪い物言いに瞳を傾ける。次いで、仄かに頬を色づかせて視線を泳がせる姿を目の当たりにした俺は、つられるように頬が熱くなっていく。言い躊躇うかのように忙しなく瞳を彷徨わせる工藤を見つめてじっと待つ。何を言われるのか予想も出来ず、緊張して自然と体に力が入る。
「あの、さ……俺ん家、来ねぇか…?」
「え?これからか?」
 きょとんとすると工藤は首を振る。
「そうじゃなくてさ。その……一緒に暮らさねぇか?…って、こと……」
「…………」
 俺は目を見開いて息を呑んだ。
 それはまさに、俺がずっと密かに胸に抱いていた願望だったから。けれども、これは俺の夢なのだから当然なのかもしれない。固唾を呑んで俺の返事を待つ目の前の工藤。これは現実の彼ではないのだから…。現実の「彼」に言われなければ意味の無いことなのに。
 彼(ゆめ)の言葉に一喜一憂する自分はとても惨めだ。
 でも、夢だとわかっているのにこんなにも喜んでいる俺は、きっと救いようが無い。
 俺は深く息を吸い込むと、意を決して重い口を開いた。
「……すまんけど…俺……」
「…そうか……。いや、俺の方こそ悪かったな。急に変なこと言っちまって…。忘れてくれ」
「いや…」
 やっとの思いで口にした拒絶。それを最後まで言い終わる前に遮り、謝罪する工藤。
 全くおかしな気分だ。
 恐らく現実の彼ならば、自分の提案を最善と考えているだけに(しかも、「住まわせてやるんだから有り難く思え」みたいな気持ちに違いない)不機嫌になるだけでは済まないだろう。こんな風に、苦笑しながらの謝罪なんて考えられない。今までがそうだったのだから。そもそも、俺が工藤の誘いを拒否することなど殆ど無いに等しいのだけれど。
 一言も責めない工藤に堪らず俯く。彼が傷ついていることを沈黙の中でひしひしと感じた。夢とは言え、彼を悲しませてしまったことに心が痛んだ。
 長いような短いような静寂の後、緩く頭を振った工藤は何事も無かったかのような軽い口調で声を掛けて来た。
「もう少しで着くぜ。映画の時間、合えば良いな」
「お、おう…」
 力無く返事を返す。明らかに無理している工藤の態度に戸惑い、遣る瀬無くなってまた窓に目をやった。
(……わからへん…。俺の望みも何もかも、わからんようになってきてしもた……)
 先程から感じていたことだったが、自分の意思を曲げるように俺の言うことを何でも聞いてくれる工藤に違和感を拭いきれない。いつでも俺のことなんかお構いなしに、自分のやりたいようにやる。傍若無人の人。だからと言って、そんな彼の行動が嫌なわけでもなく、仕方が無いと困ったように笑うのはいつも俺の役目で。
 それが、まるで反対の今のこの状況。
 ただ黙って、俺の機嫌を取るように好きにさせるこの世界の工藤。眩しそうに目を細めるその眼差しは、本当に俺に向けられているのだろうか。
 その後、映画館に着いた俺達は、目ぼしい映画の時間を確認して今流行りの洋画を観た。工藤と今まで観たことの無い恋愛物を観て、俺は溜め息を漏らした。
「やっぱ、恋愛物は男同士で観るもんじゃねぇな」
「ホンマや。周りはカップルばっかやし、さぶいぼ出たで」
「あはは。まったくだ」
 上映が終わり、互いに感想を言い合いながら車に乗り込む。俺は、先程の余韻も感じさせなくなった工藤の素振りに我知らず安堵して胸を撫で下ろした。工藤の家まで小一時間。暫しのドライブを他愛のない話題で笑いながら過ごす。
 ―――…今この瞬間を幸せだと感じる。これが夢で無かったならどんなに良かっただろう…。
 眸を閉じて刹那の幸せに浸っていると、突如、冷たい目をした工藤が脳裏に蘇った。ハッとして瞼を開く。吐き捨てられた言葉。嫌悪に歪められた表情。
 俺はふるふると頭を振って隣の工藤を窺い見た。彼は穏やかに笑んで俺を見つめている。
 綺麗な半月を描く瞳。僅かにつり上がった形の良い唇。信号が変わり、綺麗な手は華麗にステアリングを操る。彼の全てが現実の「彼」と重なる。しかし、纏っている空気がどこか違った。あまりにも対照的過ぎる、それ。
 そのギャップを痛感し、俺はふとした弾みで込み上げてきそうになる涙を奥歯を噛み締めて堪えた。
 キッと軽い音を立てて車が止まった。
 敷地内の車庫に愛車を収めた工藤は、俺を家の中へと招き入れた。
 何度も訪ねて馴染みのあるリビングのソファに座って寛いでいると、キッチンからコーヒーの入ったカップを二つ手にした工藤が入って来た。差し出されて、一言礼を言ってから口を付ける。工藤も俺の向かいに腰掛けてカップを手に取った。
 少しの間、二人して無言でコーヒーを啜っていたが、ふと、工藤がカップをソーサーに戻して立ち上がった。ソファから腰を上げる気配にカップを手にしたまま何とはなしに目で追っていると、彼はスッと俺の隣に腰を下ろし。俺の手からカップを取り上げると、いきなり肩に手を回してきた。
「服部…」
 そのまま腕に力を込められ、無防備にもぽかんとしていた俺は、いとも簡単にソファに押し倒されてしまった。工藤の端正な顔が間近に迫って来て思わず顔に熱が上がる。慌てて彼の胸に両腕を突っぱねて、躍起になって遠ざけようもがく。
「ちょ、ちょぉ…工藤……っ!?何するんや!?」
「もう、我慢出来ねぇよ…っ」
 耳元に寄せられた唇にドキッとした。続いて囁かれた掠れた声と熱い吐息にゾクッとする。背中を這い上がるのは紛れもない快感で、段々と全身の力が抜けて行く。ソファがギシリと軋む音がすぐ近くで聞こえる。
「おまえが悪いんだぜ?一緒に住むならもう少し待とうと思っていたのに、俺のこと避けるから…。俺のこと、受け入れてくれねぇから……っ!!」
「ま、待ってや、くど…っ!!」
「黙ってろよ」
「……っ!」
 言葉を阻むように唇を塞がれる。啄ばむように何度も口付けられる。
 自分が置かれている状況について行けず、瞳を見開いたままキスを受ける。混乱して頭の中が真っ白になった。
 そうしている間にも開襟シャツのボタンを上から順に外され、それによって我に返った俺は、好き勝手する指を止めようとして力の入らない指を絡めた。だが、それを咎めるように、すぐさま彼の左手に捕らえられて、右手が開いたシャツの間から忍び込んで来る。
 素肌に触れる彼の温度。身体がカッと熱くなる。
 工藤が触れている箇所から彼の体温が流れ込んできて、今まで感じたことの無い悦びが全身を駆け抜けた。
 知らず知らず眉間に皺が寄っていく。眉がピクピクと震え、堪えるように唇を噛み締める。

 ―――俺はただ、工藤と一緒にいたかっただけ。ずっと一緒にいたかった。なのに、自分はいつの間にか、浅ましくもこんな願望を思い描いていたのか。

 俺は無意識の内に泣きそうな顔をしていたのだろう。目前で、工藤が驚いたように目を見張った。
 先刻まで、冷酷な獣の眼をしていた彼の瞳は忽ち力を失って行き。
 俺を押さえつけていた腕からは、徐々に力が抜けていった。
「ご、ごめん……俺…自分のことばっかりで…。なぁ……頼むから泣くなよ…」
 優しく宥めるように俺の髪を撫でる。彼は困った顔で哀しげに肩を落とす。


 こんな彼は知らない。
 これは俺の工藤じゃない…。
 こんな、俺の顔色を窺うような彼は……一体誰?


 俺は、こんな未来を夢見ているのだろうか…。彼らしくない工藤との未来を望んでいるというのだろうか。
「服部…?はっ…とり……」
 視界が涙の膜でぼやけていく。工藤の顔も滲み、戸惑った声も次第に遠のいて行く。
 俺は静かに瞳を閉じた。





   *  *  *





「……はっとり……?」
 頭上で小さな声がする。愛しい彼の声。でも、彼にしては珍しく控えめな囁き。身体の中に沁みるように入り込んで来る。
(俺はまだ、夢ん中におるんやろか…?)
 そう思いながらもその声に応えようと、俺はぼんやりする頭を必死に覚醒させ、薄っすらと瞼を持ち上げた。
「く…どう…?」
 呟くように微かに口を動かすと、ようやく開けた視界の中で、目の前の工藤が安堵したように息を吐いた。
「おまえ……大丈夫か…?」
「え…」
「おまえ、また転寝してたから何度も起こそうとしたんだけど、全然起きねぇから…」
 心配した、と、面映げに小さく苦笑する工藤に、未だに自分は夢の中にいるのだろうかと思いを巡らせる。だが、今し方の彼の台詞を思い出し、その意味と周囲の状況を把握するにつれて、夢うつつだった俺は夢から醒めたのだと悟った。
 そんなことを考えていると、リビングのソファに沈んでいた俺の前に蹲る工藤が不意に顔を曇らせた。
「俺…おまえに酷ぇこと言っちまったなって………ごめんな。おまえは俺がコナンだった頃からずっと傍にいてくれて、いつも支えてくれたというのに……それなのに俺、あんなこと……」


『おまえが俺の何を知ってるって言うんだ?』


 脳裏を再び過ぎった言葉。胸に突き刺さって心を抉る凶器。
「本当に、悪かった…」
 工藤は項垂れて静かに謝罪を述べる。瞳を閉じ、後悔を滲ませて寄せられた柳眉が小刻みに痙攣していた。
 心から悔やんでいるような彼の様子に、安心させるように小さく笑って両手を振る。
「…大丈夫や。あんときはおまえ、何やおかしかったし。それに、お互い頭に血ぃ昇っとったんや。勢いでつい言うてまうことかてあるやろ。俺は全然気にしてへんから…」
「いや、それでも言って良いことと悪いことはある。あんな台詞、冗談でだって言って良いことじゃないんだ…」
 振っていた俺の両手を掴んで握り締める。
「工藤…」
「それに、元々は俺の我が侭だし…。それで俺、あれから凄ぇ反省して、おまえに謝ろうと思って探してて…。でも、おまえ、眠ったまま全然起きねぇし……」
 言葉を詰まらせる。ぎゅっと俺の手を握る指に力が篭められる。
「もしかしたら、俺の声が聞こえているのに、わざと寝たフリしてんじゃねぇか、とか…もう俺と話したくねぇんじゃねぇか、俺の顔も見たくないのかもしれない……とか、色々考えて…。いい加減、愛想尽かされたんじゃねぇか…って…」
 咽喉の奥から絞り出すような弱気な声。
 ふと気が付くと、彼の手は微かに震えていた。工藤は未だに俯いたままで、その表情は窺い知れない。目を眇め、彼の手をそっと握り返して俯いた頭を見つめる。
「アホ…。俺がおまえに愛想尽かすわけないやろ?おまえの我が侭なんぞ、コナンのときから慣れとるっちゅーねん」
「だからだろ。流石のおまえも、俺から逃げ出したいくらい怒ったのか…って思った。コナンのときならまだしも、俺はもう大人の身体を手に入れたんだ。いつまでも、そんな子どもみたいな我が侭なんか言ってて良いわけないんだよな…」
 握っていた手がそっと離れて行く。それを名残惜しく思いながら目で追いかけた俺の脳裏に、突如、ケンカの原因がフラッシュバックして俺は些か身を強張らせた。
 コナンの頃に出逢った俺達。俺はコナンが工藤だって知っていたけれど、何故か放っておくことが出来なくて。それは彼の外見の所為だったのかもしれないが、どうしても構わずにはいられなかった。
 少しでも彼の力になりたかった。
 我が侭だって何だって聞いた。「協力してくれ」「東京に来い」と言われれば、平日だろうと喜び勇んですぐに大阪から飛んで行った。甲斐甲斐しく世話を焼いた。小さな子どもである自分では出来ないことを俺に命令する彼に、しゃあないなぁ〜…と苦笑しながらも言うことを聞いてきた。
 それは、彼が好きだったから。大切だったからだ。
 どんなに外見が可愛らしい子どもでも、子どもに命令なんかされたら嫌な気分になるだろう。同い年の奴にだって俺は命令なんかされたくはない。
 けれど、工藤だけは違った。
 あいつの頼みを聞くときはいつだって、彼の力になれるのならと歓喜している自分がいた。
 そして、元の姿に戻ってからも未だに彼の我が侭を聞き続ける俺に、工藤が口元を歪めて嘲笑うように言ったのだ。

『おまえ、まだ俺に同情しているのか?』 と…。

 想像もしていなかった台詞に驚いて言葉を失った俺から視線を外し。
『おまえが俺の言うことを聞くのは、コナンだった俺を知っているからだ。幼い子どもになっちまった俺に同情して、そのときの感情を未だに引き摺っているんだろ?おまえは俺を見下してたんだ。だから、何でも言うことを聞いてくれんだろ?』
『どないしたんや?工藤……いきなり……』
 急にそんなことを言い出した工藤にオロオロする。わけがわからず、傍に寄って工藤の顔を覗き込む。すると、彼は外していた視線を俺に戻して鼻で笑った。
『ほら、そうやって宥めようとすんの。迷惑だし、ムカつく』
 吐き捨てるように言われ、流石に俺も頭に血が昇ってしまった。
 一度だってそんな風に思ったことは無いのに。
 俺は好意を持っていたから彼に尽くしていただけで、それを罵られる謂れは無い。
『同情とか見下すとか、何やねん!?いきなり!!そないなこと、今まで一度かて思ったことなんぞあらへんわ!!』
『どうだか…』
『何なん!?一体……工藤、おまえ…っ!?』
 尚も反論しようと口を開きかけた俺は、工藤が思い詰めた瞳で俺を見ていることに気が付いて、咽喉まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。
 工藤は俯いて押し黙る。重苦しい沈黙が俺達に圧し掛かり、暫くしてとうとう耐え切れなくなった俺はそれを破った。
 出来るだけ静かな口調を努めて。
『……なぁ…ホンマ、どないしたんや?工藤…。おまえらしゅうないで?』
『俺らしい……?』
 ピクリと工藤が反応する。
 ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐ見た工藤からは一切の表情が消えていた。ギクリとして思わず身を引く。
『おまえが俺の何を知ってるって言うんだ?』
 俺の苦しみも知らないくせに…。
 表情を無くした工藤の瞳がそう言っているようで。
 後ろ頭を金槌でガンッと殴られたってこんな衝撃は受けない。
 ずっと信頼し、されていると思っていた人間にこんなことを言われて平然としていられるわけがない。
 打ちのめされた俺は目の間が一瞬にして真っ暗になり、茫然とその場に立ち尽くしたのだった。


「…なぁ……。おまえ、ずっと俺がおまえに同情しとると思うとったんか…?」
「…………」
 黙したままの工藤に諦めのような気持ちが沸き起こる。疲れたような笑みが浮かんだ。
「何も言わんってことは、そうなんやろな…。俺なぁ……実はさっきまで、また夢の世界に行ってたんや」
 ピクッと工藤の肩が揺れる。気まずそうに彷徨っていた視線がそろそろと俺に戻って来る。
「夢の世界…?……泡沫の鏡か…」
 合点したように呟く彼に首肯する。瞳を伏せて、俺は唇の端を僅かに吊り上げた。
「そうや。……すまんな……平気なんて嘘やねん…。おまえにあないな風に言われてめっちゃショックやった……。ほんで、ちょこっとだけ甘い夢が見とうなった。俺、自分がこない弱い人間やったやなんて知らんかったわ…」
 目を瞑って自嘲気味に笑う。工藤は何も言わない。
 俺は、ふぅ…っと息を吐き出すと目線を上げた。
「勝手にまた屋根裏上がってしもて堪忍な」
「それは別に構わねぇけど…。でも、おまえ…甘い夢って……」
 戸惑うように顰められる工藤の顔。そんな彼を真っ直ぐに見られなくて、俺はまた視線を床に落とした。疚しい気持ちがあるのだから当然と言えば当然なのだが。
「……な、工藤。前に俺とおまえが泡沫の鏡触ったとき、同じ夢を見とったやろ?」
「あぁ…」
 静かに頷く。俺は両腕で自らの身体を抱き締めた。
「あんときの夢ん中の工藤は、俺んこと好きやて言うてくれた。俺はおまえと同じ夢を見たって知ったとき、あれがおまえの本心やと思いたかった」
「…………」
「けど、違たんや…。あの夢はあくまで俺の願望や……あそこにおったのはおまえやない…」
「…服部……」
 呆然とした声が耳を打つ。
 悲しくて情けなくて、涙が滲んで来た。奥歯を噛み締めてもそれは最早止まりそうに無く。
 こんな見っとも無い姿、工藤の前で晒したくなくて腕で顔を覆って必死に隠した。
 工藤は、こんな女々しい俺を見たことが無かったからだろう、少し慌てたような声が聞こえてくる。
「ち、違うんだ、服部…!!」
「……っ」
 顔を隠していた腕を無理矢理剥ぎ取られ、抵抗する間もなく強く抱き締められる。何が起こったのかわからない俺は、目を見開いて状況を把握するのが精一杯だった。
「俺、コナンだったときからおまえに甘えていた。どんな我が侭を言っても、苦笑いしながらも言うこと聞いてくれたおまえが嬉しくて。俺が元の姿に戻った後も変わらず接してくれる、そんなおまえの優しさにずっと甘えてたんだ…。でも、ふと、それって子どもになった俺に同情したからだったんじゃないかって思ったら、すげぇ不安になって……」
「……工藤…」
 トクン…トクン…と規則正しく脈打つ鼓動が身体越しに伝わってくる。工藤の匂いを傍らに感じる。無意識に心臓が早鐘を打った。
「俺、おまえの好意が同情だったなんて思いたくなかった。いつも俺に向けられていた笑顔に救われていたのに…。その笑顔に勇気付けられて、癒されて…惹かれたって言うのに……。俺ばかりが想っているのかもしれないって考えたら、物凄く嫌だと思っちまって、あんなこと……」
「く…どう…」
 俺は工藤の声を聞きながら瞳を閉じた。
 ここまで工藤に言わせた。現実の「工藤」に。
 同時に頭を擡げた苛立ち。
「……子ども染みててバカみてぇだろ?自分でも情けなくて笑っちまうよ。けど、俺は……」
「同情なわけないやろ…」
「服部…?」
「おまえ、俺のことどう見とったんや!?いっつも隣におったのに。俺ってそないに信用無いんかい!?」
 工藤の腕に包まれたまま、彼のシャツを握り締めて顔を埋める。悔しくて悔しくて。
 胸から振動を伴って工藤の声が響く。困り果てたような、意気阻喪した声色。
「…悪ぃ……。だって、自分に都合良く考えてて、もし違ったら立ち直れねぇだろ」
 常に無くしおらしい彼の様子に思わず吹き出す。俺様な工藤でもそんな弱気なことを考えるのかと思ったら、何だか可笑しくてやけに可愛く思えて、さっきまでの涙も苛立ちも吹き飛んでしまった。
「……ホンマにアホやなぁ…。まぁ、その気持ちはわかるけどな」
 埋めていた胸から顔を上げ、工藤を見上げて笑いながら軽口を叩く。すると、工藤は何か思いついたらしく、ニヤリと性質の悪い笑みを口元に浮かべた。
「そうか、気持ちがわかるんだ。じゃあ、今度はおまえの気持ちをはっきり聞かせてもらおうかな」
「……は?何やって?」
「だから、おまえの気持ちを聞かせろ」
 あまりの俺様ぶりに開いた口が塞がらない。
 俺は飛び退くようにして工藤の腕から離れる。拳を握り締め、キッと面前の彼を見据える。
「何でやねん!?さっきまでの殊勝な態度はどこ行ったんや!?おまえが先に言えや!!」
「俺は自分の気持ちをさっき全部言った。だから、今度はおまえの番」
「お、俺かてもう言うたようなもんやん…!!」
「いいや、はっきりとは言ってねぇ」
「せやったら、おまえかてはっきり言うてへんやんけ!!」
「俺は言ったぜ?おまえ、聞いてなかったのかよ?」
「ぐっ……」
 傍から見れば痴話喧嘩に他ならないのだろうが。そんなことは関係無い。ただ、言い合いで負けたことの無かった俺は、あー言えばこう言う口の減らない工藤に敗北を予感して心の中で地団太を踏んだ。
(工藤かて、ちゃんと「好き」とは言うてへんやんけ!!曖昧な表現ばっかしよって、こんのクソボケが〜〜〜!!)
 わなわなと震える俺に、工藤は勝ち誇ったように余裕の笑みを湛えている。腕を組んで立ち上がり、見下ろす瞳が面白そうに煌く。
「早く言えよ。言えないってことは、俺が思っていた通りってことか?俺って凄ぇ可哀相だなぁ…」
「ちゃう!!何ちゅーこと言うんや…。…ったく……向こうの世界の工藤のが全然殊勝やったわ!」
「何言ってんだ。俺だって十分健気だっての」
 心外だとでも言いたげに目を据える。俺は思い切り首を振って否定を示した。
「いいや。あっちの工藤はな、俺の言うこと何でも聞いてくれたもん」
「…何だよ。おまえ、そういう俺が良いわけ?そんなの俺じゃねぇだろ」
「うっ……」
 …確かに。あんなのは工藤ではない。ちょっとは優しくしてほしいとかは思うけれど。
 それを俺自身、身をもってわかりきっているから反論も出来ない。
 俺は悔しくて、ギリギリと歯噛みした。
「〜〜〜〜〜……っっ!!ええか!?耳の穴かっぽじってよう聞いとけよ!?」
 目の前に想いを寄せる人がいて、いざ告白しようとすると緊張して手に汗が滲んでくる。その相手が脂下がった顔でニヤニヤ笑っていては尚更…と言うよりも寧ろ、腹立たしさで汗ばんでくる。
 俺は一度ぎゅっときつく目を閉じると覚悟を決めて大きく息を吸い、次の瞬間、俺の絶叫とも言える愛の告白が部屋に響き渡った。
「俺はおまえが好きや―――っ!!」
「……でっけぇ声…」
 数瞬の沈黙後、耳に指を入れながら言われた台詞に憤慨する。人の決死の告白を何だと思っているんだ、この男は!
「なんやとっ!?人が真面目に言うてんのに、おまえっちゅー奴は…!!」
 流石に額に青筋を立てて噛み付いた俺に、だが、工藤は微かに頬を色づかせて照れたようなはにかんだ笑みを浮かべて。その表情に一瞬にして毒気を抜かれる。
「……でも、サンキュー。凄ぇ嬉しいよ。俺もおまえが好きだぜ、服部。来年、大学に合格したら…」
 ぽかんと口を開けて見つめていると、工藤は今まで見たことも無いような綺麗な笑顔を浮かべた。
「ここで、一緒に暮らそうぜ…」
 柔らかく微笑む顔にうっかり見蕩れる。そして、その唇が紡いだ言葉の意味を理解した俺は瞬間湯沸かし器の如く頬を紅潮させた。
 感極まって情けなくも何も言えなくなってしまった俺は、無言でコクコクと首を縦に振ることで了承を示し。更に深くなった彼の笑みと唇に触れた柔らかな感触に心を奪われ、堪らず俯いた。
 今、気が付いた。
 工藤の俺様っぷりは、照れ隠しもあるんやってこと。そして、あの夢が単なる「俺の願望」ではないと打ち震える。


 まだまだ俺は、工藤んこと、知らんみたいやな……。




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