何とも居たたまれなくなって幼馴染み達の元から逃げ出した新一は、平次が向かったトイレに駆け込んだ。
 手を洗っていた平次が近づいて来る足音に何気無く振り返り、扉を開けた新一の姿を捕えるや否や驚きの表情を作る。視線がかち合う。
 気まずさからか、即座に瞳を反らした平次に胸を痛めながらも、新一は彼にゆっくりと近付いて行った。途端、あからさまに身体を固くした平次に構わず横に陣取ると、新一は彼に視線をやることなく、静かに口を開いた。
「久しぶりだな…おまえと二人っきりになるのは」
「……せ…やな」
 まるで、世間話でもするかのような口調で話し掛ける。
 身体を小刻みに震わせながらも、平次は平静さを装って再び手元に視線を落とした。新一はその様子を鏡越しにこっそり窺い見て、小さく息を吐いた。
「おまえ……和葉さんと、別れたんだって?」
 瞬間、息を飲む気配がした。
 ビクリと竦む身体。
 それを感じつつも新一は直接平次の顔は見ず、少し顔を俯かせて茫然とする彼の手元に視線を移した。流れ続ける水と、それに当てられる彼の、時間が止まったかのように微動だにしない浅黒い手を黙って見つめる。
 長い沈黙の後、ようやく平次は詰めていた息を溜め息のように吐き出すと、蛇口を捻って水を止めた。
「……あ……あぁ………和葉から、聞いたん…?」
「あぁ」
 濡れた手を小さく振りながら呟くように問い掛ける彼に新一は素直に頷く。
「ほな………何で…別れたんか、も……?」
 その言葉に新一は目線を上げた。

 それは先刻、自分が彼女に訊きたかったこと。

 そう思って目を向けた先には、頼り無さげに俯く平次の横顔があった。
「いや。………何で、別れたんだ?」
「………。……そんなん…工藤には……関係無いやろ……」
 決してこちらを見ずに、力無く呟かれた内容に心臓を突かれる。
 確かに、平次にしてみれば嘗ての恋人――しかも、別れを告げられた相手――である新一に、そんなことを話す義理は無い。それに、蘭と付き合っている今の自分には聞く権利も無いのだろう…と、新一は思う。
 しかし、友人として訊くなら良いのでは…?と考えてみて、彼はその考えをすぐさま却下した。
 それこそ、傲慢だと。
(今更どの面下げて、「友人」だなどと言うつもりなんだ?俺は…)
「…そうだな。確かに、俺には関係の無いことだよな…」
 自嘲の笑みを浮かべてそう返せば、「関係無い」と言った張本人が、辛そうに目を眇めて顔を伏せる。
 何故、彼がそんな表情をするのかわからない新一は、何気無い彼の一挙一動につい期待しそうになる自分を叱咤した。
 淡い期待を振り払うように頭を緩く振ると、流れる動作で腕時計に目を落とす。蘭達の傍を離れてから、既に十分が経とうとしていた。
「…そろそろ戻るか。蘭達を待たせてるし」
 言いながら踵を返すと、後ろから躊躇いがちに声を掛けられる。
「工藤は……便所、ええの…?」
 新一は振り返ると瞳を細め。
「良いんだよ、俺はおまえを呼びに来ただけだから。ほら、早く行こうぜ。もう行く場所も大方決まってるだろ」
 この場にそぐわないくらい鮮やかに笑ってみせると、そのまま扉を押し開けた。後から平次が慌ててついて来る。
 新一は背後に平次の気配を感じながら、視界の先に映った人物に唇を噛んだ。長いポニーテールが揺れている。傍らの蘭と何やら楽しげに言葉を交わしては笑い合う彼女。ずっと想っていた相手に失恋し、深い傷をその心に負っている筈なのに、気丈に笑う彼女の表情を新一は真っ直ぐ見られなかった。


 彼に尋ねられたとき。
 彼女の哀しそうな視線や言葉に堪えられなくて逃げて来たからなどと、とても言えるはずがなかった。










「まずは……。あ、ねぇ、あれ透いてるみたいだよ。乗ろうよ!」
「ええね。行こ行こ!」
 女の子二人は園内の地図を片手にはしゃぎながら、目ぼしいアトラクションを見つけては男二人を引っ張って行く。そんな彼女達とは裏腹に、新一と平次は何とも居心地の悪そうな沈んだ表情をしていた。それぞれズボンのポケットに両手を突っ込み、少し前屈みで歩く姿はテーマパークという楽しげな場に不似合いで、どうにも暗すぎて浮いている。気付いた和葉が二人の顔を覗き込む。
「何やの?二人して、めっちゃ景気悪い顔して。どないしたん?」
 突然目の前に現れた心配そうな顔。それが、ふと何かに気付いたかのように小さく目を瞬かせる。我に返った新一は、誤魔化すように微笑んだ。
「え…?あ、いや、別に、何でも無いよ。ちょっと暑ぃなぁ〜…って思ってさ…」
 そんな彼と少し距離を取って横を歩いていた平次が、おどけたように和葉を顧みる。
「せやなぁ…。まだ五月やっちゅーのに……しかも、目の前にはめっちゃ暑苦しい顔があるし」
「何やてぇ〜ッ!?暑苦しい顔って、誰のこと言うてんの!?」
「おまえに決まっとるやろ」
 心配気な表情から一変して牙を剥く彼女に、笑いながら肯定した平次が頭を容赦無く打たれる。
 新一はそんな二人のやり取りを複雑な思いで見ていた。じゃれ合う二人は仲睦まじく、とても別れた嘗ての恋人同士には見えない。自分と平次の関係とはあまりにも違い過ぎる、サッパリとした彼らの関係が羨ましい。
 そういう何気ないことで平次との距離感を感じてしまい、新一は密かに溜め息を吐いた。
 そこへ、和葉の甲高い声が響く。
「平次のドアホ!!もう、蘭ちゃん、あんな奴放っといて、アタシらだけで行こ!!」
「え…っ、ちょ、ちょっと待って!和葉ちゃ〜ん!!」
 怒り心頭と言った様子で一人ズンズン歩いて行く和葉を、蘭が慌てて追って行く。
 二人の後ろ姿が次第に小さくなって行き、完全に見えなくなってしまうと、残された新一達を楽しそうな他人のノイズが巻き込んで散っていく。
 図らずも再び二人きりになってしまったことによって、気まずい沈黙が二人の間に暫く流れていたが、やがて新一が意を決したように拳を握り込んだ。自分と距離を置いて立ち尽くしている平次を見る。
「……なぁ、服部……一つだけ聞いても良いか…」
「……何や?」
 声を掛けられたのが不意打ちだったとでも言いたげに、平次が驚いたように瞳を見開いて振り返る。
「おまえと和葉さん、本当、何で別れたんだ?すげぇ仲良いじゃねぇか……」
「……ホンマに…聞いてへんのか?」
「だから、聞いてねぇってさっきも言っただろ」
 まじまじと見つめ返してくる平次に落ち着かなさを感じ、新一が思わずぶっきらぼうに返す。そんな彼の態度に平次は少しだけ淋しそうに笑うと、顔を逸らせて瞳を伏せた。
「……そか……。俺とあいつは仲ええで。そら、幼馴染みやもん、当たり前やんか…」
「幼馴染み…?」
 言葉の端を訝しげに小さく繰り返す。それは嘗て、自分達がよく口にしていた耳慣れた単語。
 平次は次の科白を、言い辛そうに一瞬口篭った。
「……俺、な………あいつんコト、ホンマに好きやで。…けど、それは家族みたいな『好き』やねん…。俺、あいつに好きやて言われたとき、時間かけたらきっと大丈夫やろ…って思うた。あいつんコト、女として見よう思て努力した。でも……結局、出来へんかった…。俺にとって、あいつはやっぱり『家族』なんや…。せやから、自分の気持ち正直に言うたんや」
「……そうだったのか…」
 独り言のように話す平次に、新一も神妙な面持ちで相槌を打つ。自ら別れを切り出した平次と、突然切り出された和葉の心情を思うと心が痛んだ。

 大切な人を傷つけてしまった痛さ。
 大好きな人から告げられた身を裂くような科白。

 平次はそのどちらも経験している。それらは紛れも無く、全て自分の浅はかな行いの所為だった。
 自分の所為で周りの人達が傷ついている。特に、平次にはとても深い傷を負わせてしまったのだと、今更ながらに痛感して胸が詰まった。
 ズキリと内側から刺されるような痛みに僅かに背を丸める。平次に気付かれないように、そっと手で何気無く押さえた。
「…………工藤の方は……」
「…え?」
 不意に話を振られて、新一はハッとして顔を上げた。目の前には、心に無数の傷を負った平次の儚い微笑。
「上手くいっとるんか〜……って、聞くまでも無いな。……良かったやん…。あのコのコト……幸せにしたりや」
「…………」
 そんな、今にも泣きそうな顔で笑わないでほしい。
 平次は気付いているのだろうか?自分が今、どんな顔で笑っているのかを…。
 新一は平次の顔を見ていられず、足元を俯くと黙ったまま彼の腕を引き寄せた。
「く、工藤…っ?」
 突飛な行動に驚いた平次が戸惑ったような声を出す。強引に腕を引かれて身体が傾き、バランスが崩れそうになるのを、足を踏ん張ってどうにか堪える。が、彼が体勢を整えるのを待たずに、新一は人混みの中を突き進んで行った。
 何度呼んでも何も返して来ない新一に諦めたように、平次は身体の力を抜くと引かれるままについて行く。
 親子連れやカップルでごった返すミステリーコースターの脇を通り、数あるアトラクションの裏を回り。あまり人気の無い広場に着くと、新一はやっと平次を掴んでいた手を離した。人々の雑踏が遠く聞こえる。
 疑問符を顔中に張り付かせながら辺りを見回す平次に、新一が芝生の上に腰を下ろして両手を後ろについた。顔を動かして広場を眺める。
「………ここ…」
「……?なに?」
 平次は立ったまま、視界の下にいる新一の頭を見つめた。懐かしい視線の角度に、平次の表情が微妙に歪む。
 新一は一頻り広場を見回した後、ゆっくりと視線を上げて平次を仰ぎ見た。平次は切なげに眉を寄せ、ぼんやりと目の前に立ち竦んでいた。
「…この場所で、俺はコナンになったんだ。そして、蘭の所に転がり込んで……おまえと出逢った……」
「工藤……」
 平次の瞳が僅かに揺れる。それを見た新一は、自嘲気味に唇の端を吊り上げた。緩やかに視線を逸らせた平次の顔を見つめながら、ずっと聞けなかった不安を吐き出した。
「…………。おまえ……後悔してるか……?」
「え…?」
 言われた意味がわからなくて、平次が新一に視線を戻す。
「俺とのコト……」
 だが、次に新一が口にした言葉に、平次は頬を染めて俯いた。
「あ……俺は………後悔してへんよ。工藤と……その……関係持ったコト…。………良い思い出や」
 ごにょごにょと口を動かし、けれども、最後の科白は顔を上げて微笑む。恐らく、今の彼の精一杯の笑顔。それは、以前の彼からは想像も出来ないくらい弱々しかった。
 新一は瞳を眇めた。
「………俺は、良い思い出だなんて思ってねぇよ」
 辛辣な新一の声に、平次は尚も困ったような笑みを浮かべる。
 無理して笑い、失敗した歪んだ表情。見ているだけで痛々しい。凛々しい眉毛が心持ち八の字になり、ピクピクと小刻みに震えるのを止められなかったことに気付いた彼は、諦めたように笑みを消して片手で口元を隠した。
「……そ…か………ま、せやな……。せやかて工藤、今…蘭ちゃんと付き合うてるし……」
「俺は…っ!!」
 平次の言葉を遮り、新一が突如鋭く叫ぶ。平次はビクッと肩を震わせ、恐る恐るといった様子で新一を窺い見た。
「…………そうじゃねぇんだよ…」
 新一が何を言いたいのかわからず、平次は戸惑うように口を小さく動かす。次いで、怯んで揺れた彼の瞳を目の当たりにした新一は、それ以上何も言えずに押し黙った。






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