哀から連絡が来たのは、そんな折りだった。
 休日の早朝。ホテル暮らしを始めてから一週間が経とうとしていたある日。
 けたたましく鳴った携帯の音で目が覚めたコナンは、眠気眼でもぞもぞと手探りでそれを手に取り、布団に入ったまま通話ボタンを押した。この携帯に掛けてくる人物は限られている。
「ふぁい…」
 まだ寝惚けたような声に、電話の向こうの相手は小さく溜め息を吐いた。
『眠そうね。もう七時半よ。そろそろ起きたら?』
「何だよ、灰原か……イチイチうっせぇよ、もう起きるって…。それより何か用か?」
『あら、ご挨拶ね。折角解毒剤が完成したから連絡したというのに』
 冷ややかな科白は、コナンの頭を覚醒するのに十分な威力を持っていた。途端に強い意思を持った蒼い瞳に光が宿り、ガバッと飛び起きて携帯を握り直す。
「な、何だって!?嘘っ!マジで!?」
 電話口で耳を塞ぎたくなるような大声を出す彼が今どんな表情をしているのかを思い浮かべて、哀は耳から離した受話器を冷めた瞳で見つめた。
『そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるわよ。私、冗談を言っている程暇じゃ無いの。これからちょっと来てくれるかしら?博士に迎えに行ってもらうわ』
 哀は言いたいことだけ言ってしまうと、コナンの返事も待たずに早々と電話を切った。






「灰原!本当か!?解毒剤が出来たって!!」
 バタンッ!と乱暴に開閉された扉とよく響く声に、哀は座っていた椅子を回転させると眉を顰めた。正面には違わず彼の姿。
「うるさいわね。もう少し静かに入って来られないのかしら?」
「バーロォ。やっと元の身体に戻れるってのに、冷静でなんかいられるかよッ!」
 鼻息も荒くそう宣言するコナンに哀は呆れたように肩を竦めると、戸棚から硝子の小瓶を取り出して来た。透き通った紫色の液体が光を反射させながら揺れている。それをこれからカプセルに詰めるらしい。
「これがAPTX4869の解毒剤よ。警察に押収される前に組織のパソコンからコピーした情報を元に作ったから、ほぼ100%に近い確率で戻れるはずだわ。ただ、実験が出来なかったから、もしかしたら何らかの副作用が出るかもしれないけれど」
 完璧では無い、ということを暗に確認しながら彼に小瓶を見せる。ガラス瓶の中で揺れる液体を見つめながら顎に手を当てたコナンは、少し考えるような素振りを見せて。
「どんな副作用が出るかわからねぇのか…?」
「えぇ。もしかしたら、死ぬかもしれないわよ…」
 視線をコナンと同じく手元のものに落とし、哀は呟くように最悪の事態を口にする。
「でも、いつまでもこのままってわけにもいかねぇし、こうやってても仕方がねぇよ。やってみなきゃわからないだろ?何かあったら、そのときはそのときだ」
 俯いたまま神妙な面持ちで決意表明をすると、「楽観的ね」と嘲笑う哀に、
「信用してるぜ、灰原」
 凶悪にもウィンクをして笑って見せる。哀は少々火照ってしまった頬を隠すように顔を背けて。
「安易に信用しないで欲しいわ…」
 と、ボソッと呟いた。コナンはそんな彼女を気にもせず、早速…とばかりに小瓶に手を伸ばす。しかし、その行動を瞳の端に捕えた哀の次の一言に、コナンは全身を凍りつかせた。
「…あなた……一体どうするつもりなの……?彼女や、服部くんのこと……」
「……っ」
 伸ばしかけた手が小瓶に届く前にビクッと固まる。
 平次との関係は勿論誰にも話してはいないが、全ての事情を知りながらずっと近くにいた哀は、いつからか二人のことに気づいていた。彼女もまた、密かに新一に想いを寄せる内の一人だったからか。
「服部くんとあなた、付き合っているんでしょう?でも…工藤新一に戻ったら、彼女のことはどうするつもりなの?彼女は、あなたが世間で行方不明となってしまってからも、ずっと待っていた人よね…?」
 鋭く突っ込む哀に、コナンは二の句を告げられずにいた。視線を逸らして唇を噛む。

(俺は、一体どうしたら良い…?)

 蘭が待っていてくれているとわかっていながら平次に手を出してしまった。例え、今は相思相愛になっているとは言えども、元に戻った後彼女を放っておくことは出来ない。あのとき、切羽詰まっていた自分は自分のことしか考えられなかった。その軽率な行動のツケが回って来たのだ。


 ―――俺は、どちらかを確実に失うのだろう…。


「それは……俺も考えていた……」
 コナンは暫く逡巡した後、身体中から力を抜くように息を吐き出した。目線だけはどうしても上げられずにいたけれど。自分の決意が揺らいでしまいそうで。
 両手が知らず震え出して、叱咤するように握り締めた。
「俺は……蘭を選ぶよ…。ずっと、待たせていたから……あいつを裏切れない」
 弱々しく搾り出すように告げた。
 今まで、十分裏切っていたのに。だから尚更、これ以上蘭を傷つけたくは無かった。蘭も大切な幼馴染みで、ずっと好きだったから。それに、彼女はいつも一緒にいたコナンを失ってしまったのだ。十七年間一人っ子として育ってきた蘭にとって、束の間の弟のようだったコナンの存在の大きさは計り知れない。おこがましいと思いつつも、自分が傍にいてやらなければ…と思う。自惚れだと言われてしまえばそれまでだったが。
「服部くんは、どうするの……」
 哀が、俯いた彼から視線を外して小さく問う。諦めたような、どこか辛そうな声音が耳に刺さる。
「……蘭と付き合うからには…………ケジメは…きっちりつけるさ……」
 変わらず哀とは視線を合わせずに、コナンは聞き取れるか取れないかの大きさで呟く。全身が茨で巻かれたようにキリキリと痛んだ。きっと、目には見えないけれど、そこかしこから血が吹き出ているだろう…と、コナンはまるで他人事のように呆然と考えていた。
 そんなコナンの呟きを辛うじて聞き取った哀は、責めるような瞳でコナンを振り返った。
「あなたは……服部くんを弄んでいたの?」
「それは違う!俺は、ちゃんとあいつのこと…っ!!……あぁ、でも、初めの切っ掛けは違ったからな…。弄んでいたのと変わりないかもしれない……」
 即座に否定しておきながら、棚上げされていたかつての己の行動を思い起こしたコナンは、瞳を細めて自嘲の笑みに口元を歪ませた。瞳を伏せた顔に影が落ちる。
 確かに今俺は服部が好きだ。愛していると言っても良い。いつも傍にいて、片時も離れたくは無いと思う。
 だけど―――。
 だからと言って…いや、だからこそ、蘭と付き合うと決めた以上は中途半端なことは出来ない。それが自分のエゴだということはわかっていたけれど。
 元に戻った暁に取る選択肢は、そのときの彼には一つしか見えなかった。
「あなたは結局、どちらも裏切ってしまうのね…」
 崩れるように研究室のソファに座り込んでしまったコナンの胸に、怒りを押し込めたような抑揚の無い哀の言葉が突き刺さった。


















 そしてまた数日が過ぎ。
 コナンは哀が作った解毒剤を飲んで完全に工藤新一の身体を取り戻した。
 それまで過ごしていた(と言っても数週間程だったが)ホテルをチェックアウトした新一は、久方振りの我が家へと足を踏み入れた。随分長い間家主が不在だったにも関わらず、時折蘭が掃除に訪れてくれていたため、思っていた程家も傷んでいなかった。
 自宅に戻った新一が最初に取った行動は、彼がコナンになっていたときに世話になった人々への報告だった。
 まず、新一が元の姿に戻るのを待たずして仕事のため一足先に外国へ戻った両親に連絡を入れた。出来ることなら、解毒剤が完成して完全に元に戻るまで息子の傍にいてやりたいという願いも虚しく、出版社からの原稿の取立てに渋々と帰って行った両親。ずっと心配をかけていたから、真っ先に安心させたかった。受話器の向こうは真夜中だったのだが、報告を受けた有希子は一瞬言葉に詰まり、次の瞬間には近所にも響くような泣き声をあげた。 ぎょっとして固まってしまった新一に、彼女は感極まったのか、ただただ『良かった……良かったわね、新ちゃん……』とだけ繰り返していた。
 その次は蘭に連絡をした。彼女には組織のことを最後まで秘密にしていたので、「ようやく難事件から解放された」とだけ伝えたら、彼女は、
『何よ。今まで掛かってたなんて、どんな事件だったのよ。新一、腕が落ちたんじゃないの?』
 と、電話の向こうで泣きじゃくりながらも減らず口を叩き。その後、ちゃっかり週末に買い物に行く約束を取り付けられた。まぁ、都合が良いか…と新一は大人しく承諾して。
 それから、目暮警部など何人もの人達に報告をして、一番最後に平次に電話をした。
『ホンマか!?工藤!!良かったなぁ。これで、工藤新一完全復活やなっ!!』
「あぁ、おかげ様でな」
『ほな、週末にそっち行ったるわ。お祝いしようや♪』
 受話器の向こうの彼はとても嬉しそうで、心から喜んでくれていることがわかった新一は、胸が押し潰されるように痛むのを感じた。顔が見えないことが幸いだった。きっと、今の自分は酷い顔をしているに違いない。
 心の中の葛藤を平次に知られないように細心の注意を払いながら、あくまで自然に新一は息を吐く。
「あ、週末はダメなんだ……来週にしてくんねぇかな…?」
『ええで。来週から冬休み入るし、ほんなら終業式終わったら行くわ』
「悪いな。それじゃあ、また来週に……」
『おう!待っとれよ〜』
 弾む平次の声とは裏腹に。
 沈んだ表情の新一は、ガチャリという音が耳元で響き、通信が途絶えたことを知らせる虚しい機械音が聞こえてきても、放心したように暫くその場から動けずにいた。






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