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終業式が終わった午後は、ようやく授業から開放された学生達にとって冬休み初日と言っても良い。 東京駅まで珍しく迎えに行った新一と蘭を逸早く見つけた平次は、一瞬驚いたような表情をしてからあからさまに嬉しそうに笑った。 大好きな、太陽のような笑顔。和葉を置いて、見えない尻尾をパタパタ振りながら犬のように新一の傍に駆け寄って来る。 今はそんな彼の表情を見るのが辛くて、彼の隣にいる和葉の姿にも胸が軋んで、新一は自嘲気味に微かに瞳を歪めた。自分は蘭と収まっているというのに、何て我が侭な感情だろうか。 「工藤!ホンマに戻れたんやなぁ〜…っとと……帰って来れたんやなぁ〜…あぁ〜良かったぁ〜」 蘭や和葉がいるというのに、迂闊に「戻れた」と口を滑らせた平次は新一に睨まれて、誤魔化すように頭を掻きながらハハッと笑った。蘭は不思議そうに首を傾げたが、すぐに後ろから追いついて来た和葉に嬉しそうに手を振る。遅れて来た和葉が、新一を一度見て蘭に微笑みかけた。 「工藤くん、久しぶりやね。ホンマ良かったなぁ、蘭ちゃん。明日は工藤くんの復帰祝いするんやて?」 「そうなんだ。本当は今日やろうと思ってたんだけど、園子が急に用事が出来ちゃって」 「あ!もしかせんでも、京極さんやろ?」 和葉が思い当たったとでも言うように、ポンッと軽く手を打って蘭を指差す。その様子に、蘭は口元に笑みを零す。親友の幸福を自分の幸せのように、それはそれはとても穏やかな表情で。 「当ったり〜♥明日の朝には帰っちゃうみたいだけどね」 「そうなんや〜。ええなぁ…。アタシなんか、全然進展あらへんもんな」 小さく溜め息と共に吐き出された嘆きに、それまで新一に気が行っていた平次が耳聡く反応する。 「何や、和葉。おまえ、誰か好きな奴でもおんのか?」 「別に、平次には関係無いやん」 「おぉ、関係無いわ」 頬を少々赤らめながら拗ねたようにそっぽを向く幼馴染みに、わけがわからないと言うように訝しげに眉を顰めていたが、すぐに、まぁ、ええか、と思ったらしい平次はいつものように憎まれ口を叩く。その科白に和葉は大袈裟なまでなリアクションで蘭に泣き付くふりをする。 「蘭ちゃ〜ん!平次ったら可愛く無いねんでぇ。何でこないな子ぉになってもうたんやろ。お母ちゃん哀しいわ」 「誰が俺のおかんや」 「まぁまぁ、二人とも。本当、今日は遠くからわざわざありがとう」 永遠と続きそうな漫才に、蘭は苦笑しながら終止符を打つべく言葉を挟む。聞いた和葉は「キャ〜ッ」と小さく叫んで両頬を自らの手で包むと、つつつ…と蘭に擦り寄り。 「いややわ、蘭ちゃん♥すっかり奥さんみたいやん♥♥」 「や、やぁだ、和葉ちゃんったらぁ〜…♥」 新一をチラリと見ながら言う和葉に、蘭は真っ赤になりながらも嬉しそうに微笑む。 「奥さんっちゅーより、おかんやな……」 キャッキャッとじゃれ合う二人を呆れたように見ていた平次の腕を新一が不意に掴んだ。「えっ?」と平次が振り向く間も無く、新一は女性二人に綺麗な笑顔を見せて。 「それじゃあ、蘭。俺、そろそろ帰るから。和葉さん、明日まで服部借りるよ」 「う、うん……わかった……」 「う…ん……構へんよ……」 「じゃ、また明日な」 にっこりと壮絶な笑みをとどめに送って、新一は平次の腕をしっかり掴んだまま雑踏の中へと消えて行った。不意打ちを食らった蘭と和葉は、暫しぼーっと彼らが消えて行った方向をぼんやりと見つめていたが、やがて我に返ったように顔を見合わせた。 「工藤くんって……凄いなぁ……」 「うん……凄いでしょ……」 困ったように言ってから、二人揃って熱を持った頬を押さえて頭を振る。パンパンと軽く頬を叩いて気持ちを引き締めると、先程のショックで取り落としてしまった荷物を持ち直した。蘭は和葉を振り返る。 「じゃあ、私達も行こっか。ドコ行く?まずはコインロッカーを探して、荷物を預けてからだね」 「うん…」 先に歩き出した蘭に慌ててついて行く。その綺麗な後姿を見ながら、無意識に和葉は溜め息を吐いた。 「あんな人と蘭ちゃん、付き合うてるんや…。蘭ちゃん、凄いなぁ……アタシはどないなんねやろ……」 自分の行く末を案じてポツリと零れた諦めにも似た呟きは、和葉の口腔内で消えて行った。 「ホンマ、元に戻れたんやな……」 蘭達と別れた後、すぐに飛び乗った自宅のある米花町へ向かう電車の中。さして混んでもいない車内で囁くように発せられた平次の声は、何の障害も無く隣に座っていた新一の耳にダイレクトに伝わった。 「さっきも言ったじゃねぇか」 何を今更。この間も、電話で前もって知らせていたというのに、そう何度も確認するようなことなのだろうか?と新一は考える。 平次はと言うと、うっかり口をついて出てしまったのであろうそれが新一に聞こえてしまったことに一瞬「しまった」という顔をしたが、彼が気づく前にいつもの表情に戻した。 「せやけど、実際に会うてみぃひんと安心出来へんやんか。ホンマ、良かった…な、工藤……」 優しい瞳で笑いかける。新一は前髪を掻き揚げるとさり気なく下を俯いた。 「あぁ…ありがとう…」 礼だけ言って黙り込む。黙ってしまった新一をどう思ったのか、平次はチラチラとその顔を窺い見ていたが、暫くしてから我を忘れたかのようにホォ…っと感嘆の溜め息を吐いた。 「しっかし、小っこいときは可愛らしい顔しとったけど、あれがこんな男前に育つんやもんなぁ……」 大切な宝物を見つめるような深い色合いの眼差しに迂闊にもドキリとした新一は、それを誤魔化すようにじと目で反撃に出る。 「何だよ、コナンのときは男前じゃなかったってーのか?」 「いやいやいや!!そないなことは決してあらへんで!小っこいときもカッコ良かったけど、今は、あんとき以上に磨きがかかったって感じやな♥」 機嫌を損ねられては大変とばかりに平次は首と両手をブンブンと横に振って即座に否定し、人好きする笑顔と共に賛辞の言葉を口にする。 「…褒めても何も出ねぇぞ」 いつも真っ直ぐに向けられる視線と言葉に、恥ずかしくなって新一が照れ隠しでぶっきらぼうに吐き捨てると。 「うわぁ〜、相変わらず可愛くないのぅ…」 心底そう思ってます、という声色の嘆きが聞こえてきた。 「てめぇに可愛いなんて言われたかねぇよ」 うんざりとして新一が背凭れに重心を預けると、平次は正面に向き直ってポツリと呟く。流れ行く窓の景色を瞳に映しながら発せられた声紋は、ガタタンという列車の音にも打ち勝った。 「せやけど、ホンマに何も出ぇへんのか?そらぁ、褒め損やったかな」 「何だと」 それは本当に小さな小さな呟きだったのだけれども、すぐ近くで発せられた言葉の内容を敏感に聞き取れた新一は、凭れ掛かったままの姿勢で平次を睨む。地獄耳やなぁ…と内心思いながらも決して口には出さない平次は、にっこりと唇の端を吊り上げて。 「いや〜、冗談に決まっとるがな!ホンマにホンマ、カッコええで、くどぉ♥」 「言ってろ……」 恥ずかし気も無くよくそういう科白が言えるものだと、ある意味感心しながら。新一は、軽口を叩きつつ、いつ話を切り出そうかと密かにタイミングを見計らっていた。おかげで東京駅から今まで、心拍数は通常の倍以上を刻んでいた。 「………あ……それでさ、服部……………」 「ん?何や?」 唇をきゅっと引き結んで決意を固め、思い切って身体全体で向き直ってみるが、いざ振り返られるとすぐに言葉に詰まってしまう。決心が萎えてしまう。それではいけないとわかっているのに。 小首を傾げて次の行動を待っている平次に、新一はぎこちなく瞳を泳がせた。 「…………いや……悪ぃ……何でもねぇ………」 「? 変なやっちゃな〜」 不思議そうに小さく笑う平次に後ろめたさを感じて、新一は彼と目を合わせられずにいた。 結局。 酒好きな平次が明日まで飲むのを待てるはずも無く、新一の家で復帰祝いの前祝いと称した飲み会をすることになった。優作が仕舞っていた高価なものであろう酒を、他愛の無い話をしながら次々と飲み空けていく。と言っても、話をするのは平次ばかりで、新一は専ら聞き役に徹していた。 この間あった事件の話、読んだばかりの推理小説の批評、友達のこと、部活の試合で勝ったこと等、平次の話すことに時々相槌を打ちながら、新一は心許無げにワインの入ったグラスを弄っていた。 早く酔ってしまいたかった。酔ってしまえば、何てこと無くすんなりと言えるかもしれない。未だ躊躇われる言葉を。告げなくてはならない言葉を。 けれど、新一の希望とは裏腹に、こういうときに限っていくら飲んでも酔いは回らなかった。 (やっぱ、己の責任は己で取れってことか…) 苦笑する。正気で伝えてこそ意味があるのだ。 飲み始めてからどのくらい経ったのだろうか。暑いと言ってフラフラと立ち上がり、部屋の窓を開けた平次は、酒の瓶に手を伸ばしてはグラスを煽っていく新一の様子がおかしいことに気がついたのか、ベラベラと喋っていた口を止め、飲んでいたグラスをテーブルに置くと彼の隣りへと移動した。片手を挙げて、彼の頬に触れる。腫れ物に触るかのように、そっと。 「!?」 突然触れられたことと吹き抜ける風に驚いた新一は、いつの間にか静かになった平次が隣りで心配そうな顔をしているのに気づいた。 触れられる手と触れられた頬、部屋を横切る冬の寒い北風と暖房の効いた室内の温度の絶対的な違いが、酔わないとは言うものの多少朦朧としていた脳をクリアにしていく。 「どないしたん…?工藤、何や変やで……?どっか具合でも悪いんか?」 頬に添えられた手が愛し気に顎まで撫でる。何度もそれを繰り返す平次に、切なさと愛しさが募った。顔を歪めて、瞳を静かに閉じる。 この、暖かな温もりを失うのがずっと怖かった。 でも、このままではいられないから。 このまま、自分の元に止めてはおけないから。 拳をきつく握り締める。 言うのは今しか無い……そう…思った。 新一はそのとき、自分の中で何かが壊れていく音をはっきりと聞いた。 「………服部……俺さ…………」 「ん?何や、工藤?」 顔を撫でていた手を掴み取られ、目をきつく閉じて何か言いた気に口を開いては呼吸を繰り返す新一を覗き込んで平次が問う。苦しそうな彼の表情に平次は困惑して、酔いはすっかり覚めてしまったようだ。どうすることも出来ず、ただ手を拱いていた。 ―――言えない。言いたくない。でも、言わなければ、俺も服部も先へは進めない……。 忙しなく脈を刻む己を落ち着かせようと、新一は深く息を吸い込んだ。シャキッとした寒風が、言い出す覚悟を決めさせてくれた。 「……俺…………」 「何や、工藤……そない言い難いことなんか………?」 振り向くと、意志の強そうな太い眉が、不安そうに顰められている。大きな瞳も揺れている。その鏡のような瞳に映し出された自分の表情を垣間見て、新一はヤバイと咄嗟に顔を伏せた。 とても酷い顔だったから。今にも泣いてしまいそうな…。 今、そんな情けない面を晒している自分自身が、新一は許せなかった。 「…なぁ、工藤、そない言い難いことなんやったら、無理して言わんでもええんやで……?」 何を言われるのか大体の察しがついているのだろうが、しかし、平次は何でも無い風に言う。 「おまえを苦しませとぉないんや……」 気丈にも新一を気遣ってそんなことを言う平次は、もしかしたらこのままの、変わらない状態を望んでいたのかもしれない。 こんなときにそんなこと言わないでくれ。気遣うのはやめてくれ。 俺は……っ、……俺はおまえを捨てようとしているのに……っ!! 「………おまえに、聞いてほしいことだから……。頼む……聞いてくれ、服部……」 喉の奥から搾り出すような、呼吸も正常に出来ていないのではないかと思うような酷く掠れた声で告げられて、平次は黙って従った。落ち着き無く、怯えるように視線を泳がせながら新一の言葉を待つ。 握り締めた拳や丸め気味の背中が小さく震えていた。 「俺……実は……さ……」 言葉を挟むことも無く静かに新一の言葉を聞いている平次。新一は彼の瞳を見ることが出来ず、自ら作り出した闇の中へと逃げ込んだ。彼の瞳を見て言えないのは、まだ彼に想いがあるから。 何て、自分は卑怯なのだろうと思った。でも、そうでもしなければ、最後まで言える自信が無かったのだ。 「俺…………実は……蘭と……付き合うことにしたんだ……」 やっとのことでそれだけを口にした。 ふぅ…と息を吐いて、無意識に強張っていた身体の力を抜く。そして、ゆっくりと目を開けて、最初に飛び込んできたのは平次の淋しげな笑顔。 新一は目を見張る。 いつも見ていた、大好きだった明るい笑顔が新一の目の前でみるみる曇っていく。そんな平次を直視出来なくて、新一は衝撃を受けながら再び俯くことしか出来なかった。狼狽える。 (何て卑怯なのだろう。何て最低な奴なんだ、俺は…!!) 瞳をぎゅっと閉じる。重苦しい雰囲気と緊張のためか口腔内が異常に乾いて、新一は何度も唾を嚥下した。 「あの……俺……凄く自分勝手だってことは十分わかっているんだ。だけど、これ以上、あいつに嘘を吐くことも裏切ることも出来なくて……。……最低、だよな………ごめん……」 言い訳染みたことしか言えない。気の利いた言葉は何一つ浮かんで来なかった。こんなときに傷つけない言葉なんて都合の良いものなど、端から存在しないのだけれど…。 平次は俯いて拳を握り締めるが何も言わない。 頭の中が真っ白になって、嫌な汗が背中を伝っていった。暖房はもう何の意味も無く、室内を漂う冷たい空気に冷やされて小さく震える。身も心も凍りつくようだった。 未だ開け放たれた窓から誘い込まれた乾いた冷気が、二人の間で舞って行った。 |
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