*   *   *



 その後、二人は事件やら模擬試験やらで音信不通となった。
 いや、お互いに連絡を取ろうと思えば取れたのかもしれない。二人共、まるで相手を避けるかのように、互いの幼馴染みをも介さない程忙しい毎日を送っていた。
 現に、どんなに忙しくてもちょくちょく新一に連絡をしていた平次が、全く連絡を取ろうとはしなかったのだ。受験生という立場から、以前のように頻繁に東京へ行くことはどちらにしろ出来なかっただろうけれども。
 新一は元に戻った数日後に高校へ退学届を出し、探偵業と間近に控えた大検受験に向けての勉強に励んでいた。
 そうして、暫く振りにようやく平次から連絡が来たのは、最後に会った日から半年後。高校三年の、季節は夏になろうとしている頃だった。
『俺、前に東京の大学受けるって言うたやん…?あれ、やめにすることにしたんや』
 電話を取って、まず始めに聞こえてきた平次の第一声がそれだった。
 一人きりの夕食を済ませ、自室で本を読んでいた新一は、当初携帯のディスプレイに表示された名前に思わず歓喜した。知らず知らずの内に口元が緩む。早まる鼓動を落ち着かせて通話ボタンを押した。
 そして、聞こえていた言葉に落胆した。追い討ちを掛けるように、己の不謹慎さに嫌悪する。
 自分から別れを切り出し、これ以上無い程に傷つけてしまった相手なのに。
 先刻の平次の言葉に、自分でも驚くくらい動揺していることに気付きながらも平静を装い、「そうか…」とだけ返事をする。
 狼狽えていることが声音でバレるかもしれないと心配したが、器用な彼の喉は普段通りの声を出してくれた。そのことに少しだけ安堵する。
 それでも、何故、平次がそんな結論に達したのか理由が聞きたい彼が訊ねると、平次が小さく息を詰める気配がした。
『……やっぱなぁ……ずっと住んどる地元を離れたないかなぁ…って、思うてな』
 それもあるだろうが、一番の理由は新一と顔を合わせ難いからだろう。誤魔化すように笑いながら言う平次に新一は唇を噛んだ。
 そう言えば…と、以前彼が言っていた言葉を思い出す。
「でも、おまえが来なかったら和葉さん、こっちの大学に来れないんじゃなかったか?」
 感情を押し込めて努めて冷静に問う新一に、平次は逡巡するかのように間を置き。固唾を飲む。コクリ…と、微かな音が新一の耳に届く。
『…それは……もうええねん』
「もう良いって…どういうことだよ」
『…………』
「服部」
 黙り込んでしまった平次に、新一は続きを促すように名前を呼ぶ。決して言い逃れを許さない固い声も自分で驚く。
 新一は腰掛けていたベッドから立ち上がると、机に置きっ放しだった煙草を手に取った。
 平次と別れてから胸に去来する虚無感に耐えられず、手を出した煙草。咥えて火をつけると、ヤニ臭い匂いが部屋に広がった。
 辛抱強く平次が話し出すのを待つ。
 時計の秒針がコチコチと時を刻み、新一が紫煙を吐いて一本目の煙草を灰皿に押し潰す頃、やっと溜め息のような呟きが聞こえてきた。
『……あいつは初めから、俺が東京の大学行くなら行くって言うてたんや……蘭ちゃんもおるし。けど、今はそない必要も無ぅなったから……』
「その必要も無くなったって…」
『俺が、東京行くのやめたから……』
 平次の科白に息を呑む。
 確かに、平次が東京行きをやめれば和葉も大阪に留まるだろう。しかし。
「和葉さん……そんなにおまえと離れたくねぇの…?」
 言ってしまってから、新一は今し方己の口が発した科白に愕然とした。まるで、和葉に嫉妬しているような科白。何て未練がましく醜いのだろうか。
 新一は、不本意この上ないとでも言うように顔を顰めた。
「そんな、おまえの行動に左右されちまう程、和葉さんの進路は簡単なものなのか」
 けれども、心とは裏腹に止まらない言葉が新一自身を嫌悪感で一杯にする。彼が悪いわけでもないのに、口を開く度に、意識せず語調が荒くなってしまう。
 平次の言動に心乱されているのは、他でもない自分だ。
『簡単なもんかどうかは知らんけど……離れた無いんはホンマやないか……と思う』
「なんで」
 つっけんどんな物言いに、平次は躊躇うように一呼吸置いた。
『あいつが…俺を、好きやから…』
 ゆっくり静かに紡がれた言葉。
 聞いた瞬間、ギシリ…と、心臓が軋む音がした。
 新一はシャツの左胸辺りを片手で力一杯掴む。皺一つ無かった彼の、肌触りの良さそうなシャツがくしゃくしゃになる程強く。 渇いてしまって小刻みに震える唇を、何度も舐めて湿らせる。
 まさか、彼が和葉の気持ちに確信を持っているとは思わなかった。流石にあからさまな彼女の態度に薄々気付いているのでは…とは思っていたが、彼は特に彼女に確認しようともせず、ずっと知らない振りを続けていた。
 自分の前では彼女の話をしなかった。それ程に、彼は自分を愛してくれていたから。
 だから、自分は彼女に対して、好意を寄せる相手に振り向いてもらえないことに同情し、それと同時に、彼を独り占めしているのは自分だという優越感を感じていたのだ。
 それなのに。
「おまえ…………知ってたのか…………和葉さんの気持ち……」
 喉の奥から必死に搾り出した声は、情けなくも掠れていた。
 つまり、平次を好きだという彼女の気持ちを自分に話すということは、以前程に彼が自分を想っていないことと等しい。
 それは、蘭と付き合い始めた自分にとって都合の良いことでもあるし、平次にとっても良いことなのだと新一も頭では理解している。けれども、そう簡単に心は割り切れないでいる。
 どこまでも、自分という人間は自分勝手で厚かましく、愚かで欲深い…。
 彼にも彼の人生がある。いつまでも過去の恋愛に引き摺られているわけにもいかないだろう。なのに今更、吹っ切った様子の彼に何を期待すると言うのか。元々の原因は自らにあるというのに。
 新一は瞳を眇める。眉間に刻まれる皺の多さが、彼の心情を如実に物語っていた。


―――独占欲が強くて嫉妬深く、浅ましい自分。最低な俺。


 自嘲の笑みに口の端を歪める。昏い影が落ちる。もう、どうしようもないことなのに。
 遠い空の下にいる平次は、そんな彼に気付かずに再びゆっくりと話し出す。
『…今年の春、進級してすぐんときにコクられたんや。それまでは何となくそんな気ぃしとったけど、正直、よう…わからんかった。探偵やのに見抜けへんやなんて情けないなぁ、って思たわ』
「そんなことはどうでも良いんだよ!それで、おまえ……何て返事したんだ……?」
 苛々と、彼は二本目の煙草を乱暴に箱から引き抜いた。火をつけようとライターを手にするが、カチカチと発火石が擦れる虚しい音が響くばかりで、それが尚一層新一を苛立たせる。
 電話の向こうで、僅かに震えた息が漏れた気がした。
『…………俺も…好きや…って…』
「…………っ!」
 咥えていた煙草が滑り落ちた。
 新一は何も言えずに呆然と瞳を大きく見開く。奈落の底へと突き落とされたように、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
『恋愛感情の好きかどうかはわからへんけど、俺があいつんこと好きやっちゅーのはホンマのことやし……。ええかなって思うたんや』
 煙草と一緒にコトン…と軽い音をさせてライターも床に落ちたが、そんなことに構っている余裕は無かった。
 ドクン、ドクン…と、心臓の音が大きく頭の中で響く。煙草が離れた手は、何かを掴もうとして空を切った。


 ここから先は聞いてはいけない。聞きたくない…と、新一の中で警鐘が鳴る。
 携帯を握る手に力が篭もる。不快な汗が身体中から噴き出し、背中を冷たいものが伝い下りていった。







 そうして次の瞬間、耳を塞ぐ間も無く、新一は半年前に平次が味わった絶望を知ったのだった。







『俺な……今年の春から和葉と付き合うてんねん』








*   *   *




「服部君と和葉ちゃん?もう、付き合って数ヶ月になるよ。え、なに?新一、知らなかったの?」
 天気の良い週末のカフェテラス。道路沿いに設置されたテーブルの間を、通りを行き交う人々の雑踏と共に心地良い風が通り過ぎて行く。
 気持ちの良い昼下がりの街は、皆浮かれたように明るい表情だ。それがとても忌々しく感じる。
 席に着いた蘭は、意外そうに向かい側に座る新一を見た。どこか思い詰めたような表情の新一は黙って頷く。
 何故、彼がそんな表情をするのかわからない蘭は暫く困惑したように新一を見つめていたが、やがて見当違いにも「親友から付き合っていることを知らされていなかった」ことに落ち込んでいるのだと合点し、少しだけ眉を寄せて小さく笑った。
 メニューを持ってやって来たウェイターにオーダーを述べると、蘭は改めて新一と向き合った。人差し指を顎に当てて、ちょっと考える素振りを見せる。
「あれは、新学期が始まってすぐの頃だったかなぁ。夜、和葉ちゃんから電話が来てね、明日服部くんに告白するって。で、次の日の夜また電話が掛かってきて、OK貰えたって凄く喜んでたんだ。何か、私と新一を見てて、自分から行動を起こさなくちゃいけないって思ったらしいの。それを聞いて、私も凄く嬉しくなっちゃった。だって、私達、あの二人のキューピット役にしてもらえたんだよ?」
 自分のことのように頬を仄かに赤らめて微笑う蘭は、心の底から幸せそうだ。



―――…自分から行動を起こさなければ……。



 嘗て、和葉が蘭に話したという科白を心の中で反芻してみる。
 それは、一歩間違えれば奈落の底へと突き落とされ兼ねない恐怖を伴った決死の行動。それに打ち勝った和葉は凄いと思う。
 それに比べて、今まで有頂天だった自分は反対に奈落の底へと突き落とされた。待たせていた蘭を裏切り、平次の気持ちを踏み躙った罰が下ったのだ。
 ギリギリと奥歯を噛み締めたい思いだった。それでも、蘭に悟られないように新一はいつもの仮面を付ける。
 運ばれてきたコーヒーに口を付け、微かに引き攣る口元を隠した。

 この有り様は何だ。

 別れたはずの平次に未だ未練たらたらといった様子で、その彼がいざ誰かと付き合うとなると、忽ちその相手に嫉妬する。醜い感情。自分という人間が物凄く汚く見える。どす黒い心の闇に支配され、負の感情に冒される。何て滑稽なカタストロフィー。




 元の姿に戻れば全てが上手くいく。何でも出来る。




 それは、幼い子どもが信じていた儚い夢だった―――。






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