「おまえ……、まさか………」
そう呟いたとき、身体の下の肢体から力が抜けていくのを感じた。じっと自分だけを見つめながら、ゆっくりと下りていく瞼。慌てて彼の身体を押さえつけていた手を緩め、背中に回して抱きしめた。
身体を通して聞こえてくる鼓動に、ほっと息を吐く。
大丈夫…眠ってるだけだ……。
自分に言い聞かせるように、深呼吸を繰り返す。平次が瞳を閉じた瞬間、彼を犯り殺してしまったのではないかと思い、背筋を冷たいものが流れた。この存在を無くす恐怖を、ほんの一瞬だが味わった。
……馬鹿なことをしたと思う。
力の抜けた平次の身体の上から退き、ズボンのジッパーを上げる。強引に取り上げた彼の衣服に手を伸ばし、そっと着せてやりながら自己嫌悪に陥る。
確かに、服部を許せなかった。体調が悪くて体力の差が歴然としている奴を相手に、卑怯だと思った。己の欲望を優先させ、己の身体を満足させるためだけの行為。俺のことなんか、ちっとも考えていない。
俺は服部の慰み者だった。そう、思っていた。今日まで。
だからしつこく仕返しすることだけを考えていた。自分の受けた屈辱を、彼にも味合わせるために。
抵抗すると思っていた。当然。…なのに、無理矢理組み敷いたのに、あいつは最後まで、気を失うまで何も抵抗しなかった。
それはまるで、自分が受けるべき報いとして覚悟していたようで。
そんな彼を見て頭に浮かんだ言葉。「後悔」。
「おまえ……、まさか………」後悔していたのか?あの時のことを…。
考えてみれば、平次はいつも新一に対して好意的だった。コナンのときも。口では迷惑そうな科白を吐きながらも、いつもその優しさに感謝していた。躊躇うことなく自分を「工藤」と呼んでくれる。本音で話せる朋友だった。大切だった。とても大切だったからこそ、あの時受けたショックは信じられない程大きかったのだ。
裏切られた…というよりも、自分が想っていた奴はこんな奴だったのか、という失望と嫌悪でいっぱいだった。自分にも腹が立った。
そして。その想いは捨てた。簡単に捨てられる程薄っぺらな感情では無かったが、必死で自分の奥に封じ込めた。組み敷かれる者の気持ちがどんなものかを彼に知らしめるために。同じことをしてやりたかった。
それなのに……。
無抵抗な時点で気づけば良かったのだ。最初から、彼は抵抗などしていなかったのだから。
『やるならさっさとせぇ!!』
この言葉を聞いた瞬間、頭に血が上った。自分がこれからしようとしていることを、こいつはわかっているのか。ただ、その顔を苦痛に歪めてやりたくて。そんな負の感情ばかりが暴走を始めて。
冷静ではいられなかった。
今し方の自分の行動を思い起こしてみて、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
情けない。どんな時も冷静沈着なホームズに憧れ、自らそれを身に付けようとしていたのではないのか。
「何で…、こんな時に限って………」
そうは言っても、若干19歳。仕方が無いと言えば仕方の無いことなのかもしれないが、やはり新一は不満らしい。はぁ…と小さく溜息を吐く。
これでは、平次と全く同じことを繰り返している。無理矢理犯して後悔の念に駆られる。思い知らされたのは彼ではなく、自分の方だ。
「馬鹿、だよな。何をしているんだ、俺……。………でも。…服部も、ずっとこんな気持ちを抱えてたのか……?」
答えの返ってこない問いを呟いて、平次を見る。意識の無い彼はグッタリとシートに身を任せている。
新一はまた一つ溜め息を吐くと、平次の座席に手を掛けてシートを戻し、彼にシートベルトをさせると自分も脇からそれを引き出してエンジンをかけた。
平次のマンションに着き、車を何時間か前と同じ場所に止めた新一は、未だに意識の戻らない平次を抱き抱えて入り口のガラス戸を押し開けた。
もう、時刻は午前一時を回っている。
数時間前、ここから出て来た彼は笑っていた…。
腕の中で息づく温もりにちらっと目をやり、そのままエレベーターホールへと向かう。その表情はどこか切羽詰ったような、そんな顔だった。
平次の部屋の前まで来た新一はドアノブを回してみて、鍵という存在を思い出した。全く、全然頭が働かない。
平次を抱いていた片手を離し、彼のジーンズのポケットを探る。時折平次が身じろいだが、構わず目当ての物を探し続けた。
手に硬い金属物を感じ、それを掴むと取り出す。
鍵を差し込み、中に入り込むと暗い空間に光を入れるため手探りでスイッチを見つけて明かりをつけた。初めて入った平次の部屋は、一人暮らしとは思えない程……散らかっていた。その光景に思わず笑みが零れる。
つくづく、自分とは違うのだと感じた。
力無い身体を優しくベッドに横たえると、汚れてしまった服を脱がせて彼の身体も綺麗に処理してやる。その身体を覆うために新一は見慣れない平次の部屋を見回し、タンスを見つけて寝巻きを引っ張り出した。子どもにでも着せるように、それにしては長い手足に布を通していく。
「…………」
新一は着せ終わっても暫く彼から離れなかった。ベッドの端に腰を掛け、じっと彼の顔を見つめる。考え込むような真面目な顔で、目を逸らすことなく。
ベッドサイドに置かれた時計の秒針の音が、やけに大きく部屋に響く。その音に顔を上げて時刻を確かめた新一は腰を上げ、サイドテーブルの上に鍵を置くともう一度平次を見た。
まだ、目を覚ます様子は無い。
確かめたいことがあった。もし、彼が自分と同じ気持ちならば、もう一度やり直せるかもしれない。けれど。
彼が目覚めるのはいつなのか。ずっとここで、平次が起きるのを待っていてもいいのだが、彼の口から聞く覚悟がまだ無い。確かめたい気持ちと裏腹に、早くこの場から立ち去りたい気持ちが鬩ぎ合う。
こんな気持ちになるのは何故なのだろうか……。
自分がどうしたいのか、どうするべきなのかわからない。
新一はそんな自分に苛立ち、唇をきつく噛み締める。そして、最善策であると彼のコンピューターが弾き出したあまりにも後ろ向きな答えを、でも今の彼には精一杯の答えを意識の無い平次に告げた。
小さな声で、喉の奥から搾り出すように。
「……服部。俺たちはもう、会わない方がいいのかもしれない。おまえの気持ちはわからないけれど、あの時から確実に歯車は狂いだした。今も……。離れることで全てを忘れて戻れるなら…。これ以上、傷つかないために。俺も…おまえも……。…多分、それがお互いのためなんだ……」
眠っている平次に軽い口付けを落とす。唇が離れた瞬間、彼が何かを呟いた気がしたが、新一は気にとめなかった。
何も言わずに玄関へと歩いて行く。扉を開け、外に出る寸前に新一は再び振り返り、ベッドの上の彼を記憶に止めるかのように見つめた。
「これで、終わりだ。俺が傷つくのも、おまえが泣くのも、これが最後……。さよなら、服部………」
切なげに瞳を伏せ、それだけ言うと部屋の明かりを消して扉を閉めた。
ガチャンと閉まる扉の金属音が、いつまでも部屋に残っていた。
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