南十字が瞬くとき

 哀は聴診器を手にして平次を振り向き、服を捲るように促した。平次の心中を知ってか知らずか、先程までと比べると幾分優しい瞳で平次を仰ぎ見る。
「工藤くんの仕事は、確かに一般シティから来たあなたから見れば異様なものかもしれないわ。でも、自分を売っているだけあって、彼らの役割は大きいの」
「え……?」
 哀の言っていることの意味がわからず、つい息を詰めた平次に哀は「ちゃんと息をして」と聴診器を当てる。
「この街には、色々な事情で様々な人が来るわ。昔は…彼らの仕事がまだメジャーではなかった頃のここは、それは酷いものだったのよ。ここに堕ちて来た人々は自暴自棄になりやすく、自分を抑えきれず欲望のままに行動したがる。住民はすぐにキレやすく、文字通り、犯罪が蔓延したならず者の街だったわ。私が来た頃も、薬を求めて病院に長蛇の列が出来ていた。……あなた、この街に来て、屋根に赤色灯が付いた黒い車を目にしなかった?」
 聴診器を外して哀が尋ねる。平次は衣服を直しながら、そう言えば…と、思い当たる記憶を辿った。
「え…?あ…ここに来た日に2回見たわ…」
「あの車は死体搬送車なのよ」
「!!」
「以前は頻繁に凶悪な殺人も起きていて、街の中はあの車で溢れ返っていた。でも、最近はそんなことも少なくなって来たの。完全に無くなったわけではないけれどね。その大きな理由は、ここの人達のやり場の無い欲望をその身で受け止め、抑制している工藤くん達の働きが大きいからなのよ」
 そこまで言って哀は息を吐くと、パソコンのディスプレイを確認してキーボードを弾いた。ディスクにデータを書き込んでからケースを閉じる。
 何も言えずに自分を凝視する平次に再び向き直ると、困ったように微笑った。
「だから、工藤くんのこと…悪く思ったりしないでね」
 ズキリ。
 何かがまた、平次の胸に突き刺さった気がした。
「…あんたも、一久と同じこと言うんやな……」
「え?」
 小さ過ぎて聞き取れなかった哀が首を傾げる。平次は一瞬口を噤むと目線を彷徨わせながら聞き辛そうに口を開いた。
「あんたは…工藤と、その…どういう関係なんや…?」
 哀は目を逸らせた平次をじっと見つめたまま思う。
 本当に、よく表情を変える。感情がそのまま表情に出る。素直で一途な…純真な心。こんな人に接触したのは何年振りだろうか、と。
(皆が大事にしたくなるわけね…)
 哀は自分の考えに僅かに笑うと、瞳を小さく傾げて柔らかな表情を作った。
「私は彼がこの街に来た当初、彼のカウンセラーを担当していたの。丁度、今のあなたのように稲尾くんに頼まれてね。それ以来の付き合いよ。特に親しいというわけでも無いけれど。…でも、あの頃の彼は本当に酷くて……大変だったわ。彼、未だに精神安定剤をもらいに病院に来てるのよ」
「……精神安定剤…。そないに工藤……」
「あの頃は凄い荒れていたわ。誰彼構わず喧嘩を売ったり、自分を傷つけたり…。かと思ったら急に大人しくなって、焦点の合わない瞳でぼぉ〜っとしていたり。精神的にかなり参っていたのね。最近は大分落ち着いてそんな心配も無くなったけど。今飲んでる精神安定剤も前程きついものじゃなくて、疲労回復剤に近いものだし…」
 黙って哀の話を聞いていた平次は、呆然とこの数日間のことを思い起こしていた。
 冷たい態度の新一。あれが精神安定剤を服用する程の精神状態にあった彼だとしたら、まだ自分は救われただろう。でも、哀の話だと、現在はそんなに酷い状態では無いらしい。
 やはり、自分は彼に嫌われているようだ。
 わかっていた。
 そんなことは…最初に会ったときから、わかりきっていたことではないか。
 なのに何故、こんなにも苦しい…?
「……俺…ここに来て一週間くらいやけど、色んな奴に会うて、色んなこと話して思うたんや…。俺はこんなトコまで来て、一体何しとんのやろな…ってな……。あいつを連れ戻す、それが俺の目的やったのに…。あいつにとって俺はもう、幼馴染みでも友達でもあらへんのかな…」
 嘲笑混じりに小さく呟いた科白を聞いて、今度は哀が目を剥いた。
「えっ………彼がそう言ったの?」
「はっきりそうは言われてへんけど、言われたも同然や。ここはおまえの来るところやない。早よ帰れ。…って言われたわ」
「………そう……」
 哀は辛そうに眉を顰めて表情を歪める。新一の本心は、結局のところ本人しかわかり得ないのだけれど、新一をここに来て以来ずっと見て来た医師(人間)としては、どうしてもその言葉が彼の本心だとは思えなかったのだが。
 そう言ってしまえば目の前の彼の心を悪戯に乱すだけだと判断した哀は、出かけた言葉をそっと飲み込むと押し黙った。それに、それは確信の持てないことでもあったし、他人が口出しして良いことでは無いということくらい弁えていた。
 哀がそうこう思いを巡らせている間も平次は話し続ける。
「初めは、ただ一緒に火星に行きたいっちゅーだけでここまで来たんや。保護者のおらんガキは他の星に移住出来へん。せやから、一緒に連れてったろって…少なからず、親のおらんあいつに同情しとった。1人やったらあいつは何も出来へんのや、って、もしかしたら知らん内に見下しとったんかもしれへん。…けど、ここに来てみたらどうや。あいつはたった1人で働いとった。生温い生活しとった俺は到底出来へんような、そんな仕事を…。その事実に愕然としたんや。仕事内容も何もかも、昔のあいつからは考えられへんことばっかしや!しかも、あいつは俺を拒絶した。そないなこと、ここに来るまで全然夢にも思わへんかった…。1人でもあいつはここで生きとる。そんなあいつに俺は、拒絶されてまでも一緒に火星に行こうって言えるんか…?って思うたんや…。今、正直どないしたらええんか迷うてる…」
 3年前からずっと、たった1人でデス・シティで働いて必死に生きてきた新一と、両親の保護の下、一般シティで安穏と暮らしていた自分との格差。そんな生活に甘んじていた自分に、果たして新一と一緒に行く資格があるのだろうか…と、ここに来てから少しずつ考え始めていた。そして、昨日は彼の仕事を知ったこともあって、頭が混乱したままあまり眠れなかった。
 哀は、思い詰めたような表情で気弱な科白を吐いた平次の目の下にうっすらと残る隈を見つめてから床に視線を落とした。
「……そうね……。今更虫が良すぎるわよね。今まで、彼が思い悩んで苦しんでいたことを、知らなかったにせよ、実際知らん顔をしていて今頃一緒に移住しようだなんて……。あなたに言った言葉が、工藤くんの本心なのだったら、ね……」
「えっ…?どういうことやねん…?」
 意味深な哀の言葉に、平次が情けない顔で彼女を窺う。哀は組んだ細い足の上で手を組むと、目を上げて平次を見つめた。
「それは私にはわからないわ。彼の気持ちは彼にしかわからないんだもの…。でも、明日のお祭りに行けば、もしかしたら、ちょっとはわかってくるかもしれないわよ?」
 言われた意味がよくわからず、平次が困ったように眉を寄せる。哀は、殊の外穏やかな自分の口調に少なからず驚いた。
「明日の祭りに…?一体、祭りで何があるっちゅーんや?」
「それは明日のお楽しみ。稲尾くんと沖田くんと行くんでしょ?それなら、午後からセンターパークに連れてってもらうと良いわ。それと…私の個人的な意見を言わせてもらうと………工藤くんをここから連れ出してほしいのよ…」
「ちょぉ、それって、どういう……」
 心なしか哀しそうな声音に敏感に反応した平次は彼女の真意を探ろうと口を開きかけるが、一足先に椅子から飛び降りてアタッシュケースを手に持った哀にあっさりかわされてしまう。
「さあ?後は自分で考えてみて。聞くところによると、あなた、なかなか優秀らしいじゃない。その良い頭でじっくり考えてみなさい」
 哀の言うことはわからないことだらけで、じっくり考えてもさっぱりわかりそうもない、とでも言いた気な平次をそのままに、哀は扉へと歩いて行く。
 黙って目で追っていた平次に彼女は戸口の前で一度振り返ると、射抜くような鋭い視線を平次に向けた。
「それじゃ、今日はこれで失礼するわ。最終的に決断を下すのはあなた自身。よく考えて、後悔しないようにね」
 パタン…と静かな音を立てて扉が閉まる。
 哀が出て行った後も暫く扉に目を据えていた平次は、ようやく緊張が解けたように大きく息を吐くと、ベッドに仰向けで倒れ込んだ。
 後悔しないように…と言われても、一体どう行動すれば良いのかわからない。何が自分のためで、何が彼のためなのか。皆で幸せになれる方法は無いのだろうか。
 考えても考えても上手い答えが見つからなくて、堂堂巡りを繰り返す。
 平次は一つ寝返りを打った。
「……最終的に決断するんは、俺自身……か……」
 誰もいない空間に、彼の声だけが木霊した。


11へ

図書館へ         トップへ


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送