南十字が瞬くとき

 それから3週間後。
 傷もすっかり完治し、体力も回復した新一はめでたく退院した。
 迎えに来た平次が彼と一緒に病院を出ようとしたとき、主治医である哀が新一を呼び止めた。
「退院おめでとう、工藤くん」
 新一が振り向き様笑って応える。
「あぁ。おまえには、すっげぇ世話になったよな。サンキュ」
「礼には及ばないわよ。それよりも……」
 哀は少し伏し目がちに言葉を切った。口元に小さく笑みを浮かべて、確かめるように問う。淋しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「この街から、出て行くのね」
「相変わらず情報早いな」
 頬を掻きながら感心したように言う新一に、彼女は瞳を上げると意地悪っぽく眇めた。
「まあね。それに、稲尾くんのご両親に依頼もされたしね」
「依頼?」
 平次は小首を傾げる。新一はと言うと、何となく内容が想像出来たのだろう、露骨に眉を顰めた。
「えぇ。警察や政府自治体のデータバンクに侵入して、あなたの過去の過ちを書き換えてくれってね」
「なっ……」
「やっぱり……」
 あまりのことに開いた口が塞がらず、口をパクパクさせている平次の横で、新一はハァ…と溜め息を吐いて片手で顔を覆った。
 目の前では、哀が腕組みをしながら「堪ったものじゃないわ」と続ける。
「簡単に言ってくれるわよ。いくらデス・シティにいる者でも、外界と接触する犯罪を警察が黙っているわけないわ。しかも、ターゲットは政府機関のデータバンク。バレれば、厳しい処罰が下るでしょうに……」
 肩を竦めて、やれやれと言った様子で他人事のように淡々と一般論を述べる哀に、2人は何も言えずに冷や汗を流していた。そうして、一息吐いた彼女は2人のぽかんとした表情を目の当たりにして、面白そうにクスっと笑った。
「安心なさいよ。もう、私と黒羽くんが容疑を掛けられている工藤くんの名前から住所、出身地、生年月日に至るまで、完璧に書き換えておいたから。幾つものアクセスポイントを経由したし、巧妙に細工もしておいたから足がつくことは無いわ。…そう言えば、データバンクに侵入したときに、ちょっと気になったことがあったんだけど……工藤くん、あなた、本当に犯罪を犯したのかしら?」
「え…?あ、あぁ……。何でだ?」
「そう…。なら、私の勘違いかもしれないわ。気にしないで」
 小さく首を振り、彼女はそれから…と手に持っていた包みを俯くと、哀の言っている意味がわからないといった表情をしている新一に差し出した。
「これ、餞別よ。服部くんもいるし、もういらないかとも思ったんだけれど。でも、よく考えたら、これからはきっと、今までとは違う意味で色々と疲れるでしょうからね」
 含みのある哀の科白に、受け取った新一は中身を見るまでもなく勘付き、微かに頬を染めて思いっきり嫌そうな顔をする。平次は意味がわからず、きょとんとしていたが。
「いつも言っているけれど、くれぐれも飲み過ぎてはダメよ。滋養強壮によく効くドリンクなんだから、服部くんが壊れちゃうわ」
「うっせぇよ!一言多いんだよ、おめぇは!!」
 昼下がり、人々が療養する静かな病院の玄関ホールに、新一の叫び声が響き渡った。





 その後、グレート・コーストに移動届けを出した2人を出迎えた探は驚いたように彼らを見比べていたが、やがて、提出された書類に一通り目を通して了承の印を押すと、パソコンを操作して登録を抹消した。続けて2人に視線を戻し、「淋しくなりますね」と微笑んだ。
 メイン・ストリートでタクシーを拾って新一のマンションに戻ると、平次が予め纏めておいてくれた大して多くも無い荷物を両肩に担ぎ、新一は3年間生活した部屋を見渡した。窓から外を見下ろす。初めて来た日からの様々な思いが新一の胸の中を駆け巡った。
 窓から射し込む西日に照らされ、傍から見るとぼーっと佇んでいるような彼の後ろ姿を、平次は自分と新一の荷物を手に持ちながら静かに見つめていた。


 マンションを後にした2人は、死神の地と呼ばれる街の最北を目指す。唯でさえ薄気味悪いその地は、先日の件以来一層取り締まりが厳しくなり、正式に立ち入り禁止区域と認定された。今や、そんな場所に向かう者は誰もいない。
 ウエスト・アベニューから北へ続く道に設けられた鉄格子のゲート前には、以前は無かった監視カメラと警備員が配置されていた。
 警備に当たっている男も親衛隊員なのだろう。人気の無い場所に1人、しかも事件を起こしたのが嘗ての仲間だったことから、初め覇気の薄れた表情をしていたが、事件の被害者である2人の無事な姿を見て安心したのか、彼らが通行許可証を見せて通り過ぎる頃には徐々に本来の誇りを取り戻しつつあるように見えた。
 敬礼をして見送る彼に、2人は小さな笑みを返した。




 必要以上の会話もせずにそのまま歩いていると、次第に左側に広大な森が見えてきた。森へ入る小道を数本通り過ぎる。整備されていない、獣道のような細い道だ。
 新一は、何本目かの小道の前で立ち止まるとその先を指し示した。
「この道だ」
「うん」
 あの日、新一が平次に残した地図に書かれていた道。
 足早に森へ入って行く新一の後をついて行きながら、平次が気持ち良さそうに深呼吸をする。爽やかな緑の風が吹き抜ける。空気の良いデス・シティの中でも一番心地良く感じる風だった。
「俺、おまえのメモ見て知ったけど、こないなとこに抜け道があったんやな。知らんで入ったら迷いそうやわ」
 センターパーク以上の大量の木々を目にした平次は、殊更嬉しそうに土を踏む。新一の傍をちょろちょろする様は小動物のようで、新一は密かに微笑んだ。
「このプロムナードをずっと行けば、一直線で他のシティの傍に出られる地下道に出るんだ。ここの限られた連中しか知らない抜け道だぜ。この街の入り口ゲートに張り巡らされているシールドは特殊なもので、一度市民登録すると、グレート・コーストで許可を得て、特別なIDカードを発行してもらわない限り出られないんだ。しかも、その許可も審査やら手続きだ何やらでなかなか下りない。一度入ったら簡単には出られない…自由だけど、監獄みたいなもんだよな。でも、巡回員はグレート・コーストの指令で、必要とあらば他のシティに行かなければならない場合もあるわけだ。例えば、許可も得ず、不法に脱け出した奴がいたときとか」
 そんな頻繁には無いけれど、と新一は荷物を持ち直した。
「はぁ…。巡回員って、デス・シティ内の巡回以外にもそないな仕事があってんな。まるでポリみたいやん」
 一般シティで噂されている「ルールが無い」とはよく言ったものだ。やはり、こうして何らかの規律を守ることで、皆奔放に生きていけるのだ。
 デス・シティは犯罪者や堕落者の巣窟。しかし、そこで生きているのは同じ人間なのだと妙に実感する。
「そう言えば、服部の親父さんも警察官だったよな。俺達はそんな大それたもんじゃねぇけどさ。ただ、ここで好き勝手生きているだけに、一般シティの人達に迷惑を掛けるわけにはいかないだろ?無法地帯なのはデス・シティの中だけなんだ。グレート・コーストが北の地を立ち入り制限区域に指定していたのは、入り組んだ『死神の地』だからだけじゃなくて、そういった理由もある。だから、巡回員に任命されているほんの限られた人間しか、この道を知らないんだよ」
 どこまでも続く道を進みながら、新一は色々なことを平次に話して聞かせた。話しながら、これでこの街ともお別れか…と思うと、新一は何故だか切なくなってくる。以前いたシティに置いてきたものがあるように、この街にも沢山のものを置いて行く。
 新一はらしくもなく感傷的な自分自身に笑うと、傍らの平次を盗み見た。
 置いて行くものばかりじゃない。今こうして、ずっと欲しかったものが手に入ったではないか、と。
「ほんで……まさか、このまんまずっと歩いて行くんか…?」
 平次はデス・シティに来た日のことを思い出した。
 トーキョー駅から約50q。辿り着いたシティからタクシーに乗って数十分かかったことを思い、彼は顔を引き攣らせたが。
「まさか。シンジュクまでどんだけあると思ってんだ?もう少ししたら地下の巡回員駐車場に着く。そこに俺の車もあるからさ」
 新一の返答にホッと胸を撫で下ろす。
 ここからシンジュクまでの距離はわからないが、広いトーキョーを歩き回るのは、もう勘弁願いたいと思う。
 不意に、前方の生い茂る木々の間からトンネルのようなものが現れた。朧げに地下へと降りて行く階段が見える。
 壁の両側に灯された灯りが殊の外暖かな色合いと落ち着いた雰囲気を醸し出し、見上げる2人を優しく出迎えていた。




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